No.739 ヨシュアにより約束の地へ

テキスト:2715 それでモーセは主に申し上げた。
16
「すべての肉なるもののいのちの神、主よ。ひとりの人を会衆の上に定め、
17
彼が、彼らに先立って出て行き、彼らに先立ってはいり、また彼らを連れ出し、彼らをはいらせるようにしてください。主の会衆を、飼う者のいない羊のようにしないでください。」
18
主はモーセに仰せられた。「あなたは神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュアを取り、あなたの手を彼の上に置け。
19
彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、彼らの見ているところで彼を任命せよ。

 

本日は「ヨシュアにより約束の地へ」との題でメッセージをしたいと思います。

 

前回見たように、出エジプトしたイスラエルの民を率いたモーセ、アロンは民を約束の地に導き入れることは出来ませんでした。逆に約束の地を目の前にして、山で息が絶え、彼ら自身も約束の地には入れなかったのです。

 

このようになったその理由は彼らの個人的な罪、それが重大なこと、と言うより、預言的な事柄、と理解出来ます。すなわち、後の日にモーセの子孫である律法学者、またアロンの子孫である祭司達は、民を約束の地、御国に連れ行くことが出来ない、逆に失敗してしまう、そのことをあらわすように思えるのです。

 

そして、そのことは、主イエスの時、成就しており、モーセの位置に立つ律法学者達は民を約束の御国に連れ行くことが出来ず、逆に何とゲーナへと導くものとなっていました。
私の言い方が極端に聞こえるかも知れませんが、しかし、このことは、主が明言していることです。


以下の通りです。

 

マタイの福音書 2315 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするからです。

 

そして、モーセの地位に立つ律法学者、パリサイ人たちが民を御国に入らせることが出来ないばかりか、
自分も入れないことは以下のように語られています。

 

マタイの福音書 2313 しかし、忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。

 

天の御国に自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせない、この言葉は明らかに約束の地を目前として自分は約束の地に入れなかったモーセ、アロンの姿とオーバーラップしています。

 

そして、この事柄は主イエスの時、明確に成就し、その当時の聖書の専門家だった律法学者、パリサイ人は真理である方、イエスを見分けることが出来ず、逆に排撃、殺害し、命への道を自ら閉じ、民衆にもイエスは異端者であると告げ、その天の御国への道を閉ざしたのです。

 

さて、このことは終末の日に必ず必ず再現すると思われるのです。
何を言っているのかと言うと、現代の教会において、モーセの位置に立つ聖書学者が、正しい終末の教理を見出すことが出来ず、間違える、はたまた、現代の教会において、アロンの位置に立つ牧師が間違え、正しい聖霊の声に聞き従えなくなる、このことは必ず起きる、と思えるからです。

 

そして、このことは、現実を見る時、実際に成就しつつあります。
現代の教会の教師、モーセの立場に立つ聖書の教師達の語っている教理は、聖書とは無縁の空想話、ヨタ話の類いです。
たとえば、カソリックでは地獄はない、創世記は、神話だと公言されています。
プロテスタントにおいても、冗談話としか思えない、キリスト2段階携挙説、キリストは艱難の前(中に)にもう一回再臨するとの空想話が真面目に論議されています。
そして、そんなヨタ話に異義を唱えると教会から追い出すとか神学校から追い出すとか、お声新聞系の教団では、信者を脅すようです。困ったものです。

 

はたまた神父の目も曇っており、あの悪霊マリヤが神からの霊に思えてしまうおかしな神父が沢山おり、またプロテスタントでもあの悪霊リバイバル、トロント、ペンサコーラの霊が神の霊に見えてしまう霊の盲人牧師が沢山います。

 

こんな神父や牧師についていったらどうなるのか?
盲人の手を引く盲人の後についていけば、2人ともに溝に落ち込むのが当然の帰結であり、天の御国へ着くはずが、滅びのゲヘナへ直行してしまうのです。

 

どうぞ、読み取ってください。


このような未来、終末の日を預言し、予想し、聖書には、モーセ、アロンが約束の国目前にして、その地に入れなかったことが書かれているのです。そして、この預言はものの見事に成就し、イエスの時代のモーセ、アロンに当たる律法学者、祭司は間違え、彼らに従った民は皆、滅びに、ゲヘナに直行したのです。

 

繰り返しますが、現代の我々、終末の時代に生きる我々はこれら全ての預言とその成就を前に、襟を正し、教訓を受け、常識を捨て、聖書の警告に従うべきなのです。

 

聖書の警告の焦点は明らかに本番の終末の時代、今に当てられ、言わんとしていることは、現代のこの終末の時代においてもモーセの立場に立つ、神学者が間違え、アロンの立場に立つ牧師が間違えるぞとの警告です。

 

このことを念頭に置き、人に対して盲目的な信頼を置かず、逆に人よりは聖書の声、また、悪霊リバイバルよりは聖霊の声に耳を傾ける人は幸いなのです。

 

このことを念頭に上記テキストを見ていきましょう。

 

 

”15 それでモーセは主に申し上げた。
16
「すべての肉なるもののいのちの神、主よ。ひとりの人を会衆の上に定め、
17
彼が、彼らに先立って出て行き、彼らに先立ってはいり、また彼らを連れ出し、彼らをはいらせるようにしてください。主の会衆を、飼う者のいない羊のようにしないでください。」

 

モーセは自分が約束の地に入れないことを悟り、それで神に「ひとりの人を会衆の上に定める」ことを
求めました。その人の名前はヨシュアであり、その名前を新約的に発音すると他でもない「イエス」という
名前なのです。

 

ですから、ここで言われているのは、モーセでもアロンでもない、今で言えば、聖書学者でもなく、牧師でもなく、しかし、イエスこそ、そして、イエスの霊である聖霊こそが、この終末の日を導き、私達を誤りなく約束の地、天の御国へ導かれると言うことが語られているのです。

 

”18 主はモーセに仰せられた。「あなたは神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュアを取り、あなたの手を彼の上に置け。
19
彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、彼らの見ているところで彼を任命せよ。

 

ここでは、ヨシュアを紹介するのに、単に彼の名を語るのではなく、逆に「あなたは神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュア」として、神の霊のことが強調されています。
ですから、終末の日に我々を導かれるのは、そして、天の御国へと導かれるのは、イエスであり、そのイエスの霊である聖霊なのです。

 

この聖霊に聞き従う者のみ、入るべき御国へ入るのです。

 

私達の教会では聖霊に導いていただくために、預言の賜物を求めています。

 

このこと、聖霊が終末の日に預言を通して民を導くとはまた、聖書的なことでもあります。
何故なら、聖書は明確に以下のように記載するからです。

 

使徒の働き 216 これは、預言者ヨエルによって語られた事です。
17
『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
18
その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。

 

ですから、終末の日、終わりの日に神の預言が与えられ、それを通して教会の方向性が示されるとは優れて聖書的な事柄なのです。

 

そして、具体的に主の御霊が示される終末の現実は今の時代の盲目な教師達が語るヨタ話とは全く異なるものです。

 

たとえば、今の時代の教師達はクリスチャンと名が付けば、決して滅びることはない、とのインチキ話を語りますが、預言は滅びに至る者が多いこと、残されるものは少ないことを語ります。

 

これらはどちらかが正しいのであり、どちらかが間違っているのです。

 

しかし、繰り返す様ですが、かつての日、モーセ、アロンは民を約束の地は導き入れられず、逆にヨシュアこそ民を約束の地へ導き入れたことを思い出しましょう。

 

今の時代もモーセ、アロンの位置に立つ神学者や、牧師にのみ、聞き従う人は入るべき御国に入れないかも知れません。しかし、聖霊の声に聞き従う人は狭い門を通り狭い道を通り、御国に入るでしょう。

 

 

終末における主の御心を行いましょう。