No. 729  エサウは退けられ、ヤコブは愛される

”テキスト;創世記25:29 さて、ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。
30 エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」それゆえ、彼の名はエドムと呼ばれた。
31 するとヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」と言った。
32 エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう。」と言った。
33 それでヤコブは、「まず、私に誓いなさい。」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼の長子の権利をヤコブに売った。
34 ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。”
 

かつて主は、兄エサウを憎み、弟ヤコブを愛することを語りました。
以下の通りです。

”ローマ人への手紙 9:13 「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。”

この箇所だけ見ると、兄ではなく、弟を愛するのは、神様の気紛れに過ぎないようにさえ思えますが、そうではありません。そうではなく、弟が愛された理由があることは、創世記の該当箇所を見るとわかります。

私の理解では、兄は、御使いの型、弟は、人間の型です。
ヘブル書には、何故神が人を顧みられるのかと、疑問形で書かれています。

”ヘブル2:5 神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。6 むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。”
 

弟である人間が顧みられるようになり、後の世を受け継ぐその理由は、兄、御使いが自分の特権、後の世を受け継ぐという
長子の特権を軽んじたからです。このことをテキストから見ていきましょう。テキストに沿って見ていきます。
 

”29 さて、ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。
30 エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」それゆえ、彼の名はエドムと呼ばれた。”
 

ここに兄、エサウと弟、 ヤコブとが描かれています。
兄、弟、どちらがイサクの長子の権利を受け継ぐようになるか、それがここでの
トピックです。
 
 
 
 

”31 するとヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」と言った。”

長子の特権とは何でしょう。長子は家を継ぎ、家督を継ぎます。そして、それは、後の世を誰が、
御使いか、人間か、どちらが、継ぐかの問題です。そして、その結論は、兄ではなく、弟に渡りました。
ヘブル書に、「後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです」と書かれているとおりです。

本来、兄が継ぐということが常識であり、普通なのですが、しかし、逆転したのです。
何故、逆転したのか?このエサウ、ヤコブの箇所では、
弟ヤコブがその長子の特権を正しく認識し、そして、それを受け継ぎたいと願っていた、そのことが

理解できます。

彼はそのように願い、求め、実行したので、結果として、その特権を得たのです。ですから、
私達、クリスチャンの間でもこのことを求め、願い、追求する、そういえるでしょうか。
パウロはこのことをこう述べています。

”1コリント9:24 競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
25 また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
26 ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。”
 

次をみます。

”32 エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう。」と言った。
33 それでヤコブは、「まず、私に誓いなさい。」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼の長子の権利をヤコブに売った。
34 ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。”
 

ここで兄、エサウは弟、ヤコブに一杯の煮物と引き換えに長子の特権を売り渡してしまいました。
彼はそのままにしていたら、受け継げる、長子の特権を自ら、売り渡してしまったのです。
このことは、エサウの軽薄さをあらわすものですが、それはまた、人間の兄であり、
その前に創造された御使いの誤り、軽薄さをあらわすものです。
 

彼は自ら、長子の特権を売り渡し、軽視し、結果、家督の件を失ったのです。彼らは後の世を支配する、長子の特権を失ったのです。
だからこそ、
ヘブル書に、「後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです」と書かれているのです。

さて、このエサウ、ヤコブに関してもう一つ付け加えるべきことがあります。
以下の記述です。
 

”創世記27:36 エサウは言った。「彼の名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけてしまって。私の長子の権利を奪い取り、今また、私の祝福を奪い取ってしまった。」

41 エサウは、父がヤコブを祝福したあの祝福のことでヤコブを恨んだ。それでエサウは心の中で言った。「父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう。」”

彼、エサウは弟ヤコブにしてやられ、それを恨み、殺意さえ抱くようになるのです。
これを御使いと人間の間に置き換えるなら、本来御使いが受け継ぐべき
後の世を支配する権威を人間に奪われ、その結果、御使いはどう反応するか、それは、
殺意を抱くようになるのだ、そう理解できます。
 

最初の人間、アダム、エバが創造された後、すぐエデンの園へやってきて、
彼らをだまし、死に至る木の実をくらわせ、命の木への道、永遠の命への
道を奪った相手、彼らに殺意を抱いた相手は、他ならぬ御使いの長たるサタンだったからです。
 

また、サタンが人を殺すものであること、人間を狙い、命を奪う存在であることは、
主もいわれたことです。
 

”ヨハネの福音書 8:44 悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。”

ですので、我々は聖書の隠れた奥義、人と御使いの関係に関しても目が開かれなければなりません。
そして、我々がクリスチャン生活を送る上での真の敵をも理解しなければなりません。
それはパウロのいうように、血肉、人間ではなく、しかし、霊を持つもの、サタンを始めとする御使いとの闘いなのです。

”エペソ人への手紙 6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。”
 

このことを正しく知りましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー -----------------------------7da20131c0218 Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream