NO.728 兄、御使いが弟、人に逆転される

”テキスト:ヘブル2:5 神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。
6 むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。
7 あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、
8 万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。
9 ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。
10 神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。

 

本日は、「兄、御使いが弟、人に逆転される」という題でメッセージしたいと思います。
聖書にはいわゆる奥義という類いのことがらがあります。
表面的に読んでもそれと悟らないが、神が明らかに隠していることがらがあるのです。

上記テキストを読み、わかることは、人と御使いという明らかに対照的な2つの被造物の関係です。
すなわち、以下の事がわかります。

1. 御使いは、2つの被造物の間、明らかに兄の立場であり、人間は、弟のような存在である。

一般的に兄と弟、たとえば、小学6年生の兄と、1年生の弟を比べましょう。
その場合、明らかに兄の方が年も上、体力も上、知識も上です。
同じように、御使いと人間を比べたら、明らかに御使いの方がその能力、体力は上なのです。
人間は生きても100才位までしか寿命がありませんが、御使いはもっと長く生きるでしょう。
人間は空などとべず、ジャンプしたって、せいぜい1ー2Mしか飛べませんが、御使いは空を飛べるようです。知識や頭の回転だって、御使いの方が人間より上です。
その証拠に最初の人間、アダム、イブは御使い、サタンにすっかり、エデンの園でだまされてしまいました。

2. しかしながら、後の世において、兄、御使いと弟、人間の間の関係は
逆転される。

こう書かれているからです。

” 神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。
むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。”
 

後の世を支配する、ということに関連して、兄、御使いと弟、人間との
間は明らかに逆転をするのです。

この事実、御使いと人間との間の逆転という奥義を示すために聖書の至るところで、
兄と弟との逆転劇が、記載されている、そのことがわかるのです。
逆転劇、すなわち、最初の兄弟、カイン、アベル、またイサクの子、エサウ、ヤコブの兄弟の
逆転劇など多くの兄弟間の逆転劇が、聖書に記されているのです。

さて、このことを念頭に本日の聖書箇所を見ていきたいと思います。
 

”5 神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。”

今の私達が歩んでいる世は、我々が永遠に住むところではありません。我々はここには、
家を持たない、旅人に過ぎません。大事なこと、力を入れるべきポイントは後の世における、
報いです。そして、聖書は明らかに、後の世において、逆転現象が起き、御使いと人間との
間に逆転現象が起きることを語ります。

しかし、何故、逆転するのでしょうか?

御使いは人より、先に創られました。
最初の人間、アダム、エバの時、すでに存在しており、彼らをだましたのですから、明らかに
御使いは兄のような存在なのです。
それなのに、何故、「後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。」と書かれているのでしょう?
 

考えられること、想像できることは、こういうことです。
すなわち、当初、神は最初の被造物、御使いを尊重して、彼に、後の世を従わせようとしたのです。
しかし、彼は失敗した、もしくは、反逆した、その仕事を軽視した、
結果、その働きは弟、人間に回って来た、そう想像できるのです。

実は聖書の兄、弟の関係を見ていくと、そう想像できる箇所がいくつかあるのです。

たとえば、エサウ、ヤコブの兄弟間系を見ると、兄エサウは、
長子の特権を軽視し、弟に一杯のスープと引き換えに簡単に売り渡しています。

また、カイン、アベルの兄弟間系を見ると、兄がささげた供え物は、神に喜ばれ、受け入れられなかったものであることがわかります。

似たような例、たとえば、これは、肉親の兄弟関係でないのですが、しかし、
イスラエルの最初の王、サウルとダビデの関係にも似たような事柄があります。
最初の王、サウルは見捨てられ、次の王、ダビデにとって代わられてしまうのですが、
その理由として、王、サウルが神の前に大きな罪を犯したことが記載されています。
彼は神のことばを退け従わず、勝手にささげものをしたり、聖絶せよといわれた牛を
聖絶しませんでした。

また、これも肉親の兄弟ではないのですが、兄弟に準じた例として、
王の2人の妃のことが聖書、エステル記に描かれています。
ペルシャの アハシュエロス王の最初の妃が、退けられ、後に次の妃、エステルと
交代したとの記述が聖書にありますが、その場合その最初の妃が退けられたことにも
理由があります。それは、彼女が王の命令に聞き従わなかったことです。
 

これらのいくつもの兄と弟の例、またそれに準じた例を見てわかることは、
兄が退けられたことには理由があり、それもまっとうな理由があり、彼は退けられるべくして、退けられたということです。
 

”6 むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。”

兄が、自分の働きを軽視したため、弟である、人間に神の目がとまり、
彼が後の世を従わせる地位につくようになりました。逆転が行われるのです。
 

”7 あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、
8 万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。”

ここで、主イエスのことが書かれています。この箇所から、
主の行われた歩み、従いはいわば、人の代表、人間の代表として、
なすべきことをした、結果、人間は誉れを受けるようになった、そう読めます。
 

主について聖書は、「人の子」といういいかたをします。その意味は、「御使いの子」ではない、
御使いの代表ではない、という意味合いです。神は、人を顧みられたのです。

さて、主は万物を足の下に従わせられ、その結果、人間もそのような高い位置にあるはずなのに、
しかし、実際はそうではありません。
 

”9 ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。”
 

主は、後に「栄光と誉れの冠」を受けるようになったのですが、その前に、「死の苦しみ」を味わわれてことが書かれています。
主は我々クリスチャンの長子であり、我々クリスチャンも彼に準じ、この世ではある程度の苦しみを受ける、そして、後の世で栄光を受ける、そのことがわかります。
 

”10 神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。

人の子である、イエスの従いのゆえ、私達は栄光を受けます。
しかし、それは我々の模範であり、我々も多くの苦しみ、困難を経て、後の日に重い栄光を受ける、このパターンは覚えておきましょう。
 

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー -----------------------------7da39f331c0218 Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream