NO.724 やがてくる審判について語る

”テキスト;使徒の働き 24:24 数日後、ペリクスはユダヤ人である妻ドルシラを連れて来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスを信じる信仰について話を聞いた。
25 しかし、パウロが正義と節制とやがて来る審判とを論じたので、ペリクスは恐れを感じ、「今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう。」と言った。”

本日は、「やがてくる審判について語る」という題でメッセージしたいと思います。
現代の教会において、よくいわれるのは、
伝道でしょう。伝道することは確かに大事、福音を伝えることは確かに大事なのですが、
しかし、改めて思いますが、我々はどのように伝道すべきなのでしょう?

何が伝道する時のポイントなのでしょうか?
この件に関して、大伝道者、パウロの方法にならうことは賢明です。

上記テキストがその箇所です。テキストに沿って見て行きましょう。
 

”24 数日後、ペリクスはユダヤ人である妻ドルシラを連れて来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスを信じる信仰について話を聞いた。”

ペリクスはローマの提督です。ですから、当然異邦人なのです。
ですから、ここは、クリスチャンが異邦人、未信者にどう伝道するか、ということを扱っている箇所なのです。

どのように、「キリスト・イエスを信じる信仰について話」をするか、ということを扱っている箇所なのです。

”25 しかし、パウロが正義と節制とやがて来る審判とを論じたので、ペリクスは恐れを感じ、「今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう。」と言った。”
 

さて、その時、パウロがその未信者であるペリクスに何をどのように語ったか、
それがこの箇所なのです。
 

この時、彼、大伝道者パウロは、未信者であるペリクスに対して、「正義と節制とやがて来る審判」とに関して、理論的に語ったのです。
 

このような方法、すなわち未信者に対して、いきなり、
「正義や、審判」に関して語りはじめるなんていう伝道方法ははっきりいって、
今の時代の伝道にはあまり用いられない方法です。

たとえば、あの怪しい男、ビルブライトが開発した、「4つの法則」という
伝道トラクトがありますが、書いてあるのは、神、罪、救い、キリストといったところで、
どこにも迫り来る審判のことなど書いてありません。

これは4つの法則だけでなく、現在の福音トラクト、福音文書などには、あまり
「迫り来る審判」のことなど書いてないのです。

現代はもう伝道に関連して審判や、審判の日のことなどいわない時代なのかもしれません。
何故なのか?おそらくあまり人気のない、トピックだからなのかもしれません。

しかし、たとえ人気があろうと、なかろうと、他でもないあのパウロが用いた方法なら、
我々は一考すべきと思います。
 

迫り来る審判の日について語る、それは、あのパブテスマのヨハネの伝道方法でもありました。
彼は、迫り来る神の怒りの日、審判の日に関してまっすぐに、虚飾なく、以下の様に率直に語ったのです。
 

”ルカ3:7 それで、ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出て来た群衆に言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。
8 それならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの先祖はアブラハムだ。』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
9 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」”

さて、このように迫り来る審判について聞いた異邦人、ペリクスの反応はどんなものだったでしょうか?
 
 

”ペリクスは恐れを感じ、「今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう。」と言った。”
と書かれています。

ですから、パウロのいう後の日の審判という聖書の教えに関して、未信者であり、異邦人である
ペリクスはそのことばをそのまま受け取り、恐れを感じたのです。

このことはとても大事なことと思います。
何故なら、後の日の審判を真に恐れる人は神の前に立ち返る可能性があるからです。
逆に神だの愛だの、キリストだのの話題を放っておいても特に問題ない、すなわち、審判について特に聞いてない人は、必ずしも神の前に立ち返るとは限りません。
審判について聞くかどうかは、大きな違いがあるのです。

悲しいことですが、人は理想や、道徳だけでは動きません。逆に
罰や、裁きが厳しいことを知るとその行いを正し、悔い改めるものなのです。

私がまだ、若い頃、バイクに乗る人は必ずしもヘルメットを着用しませんでした。
ヘルメットを着けた方が事故が起きた時安全なのは、みな知っているのですが、
いかんせん、ヘルメットをかぶるのが野暮ったく見えたり、髪が乱れたり、とか、そもそも高いからとか、みななんだかんだ理由をつけて着用しなかったものでした。
たまに着用している人もいましたが、それは例外的なものでした。
「推薦」や「お勧め」の影響とはこの程度のものです。

しかし、やはり、ヘルメットを着用しないための死亡事故が多かったので、ある日を契機に
道交法の法律が施行されることになりました。「本日以降、ヘルメットを着用しないバイク運転者には、
一律 2万円の罰金が課せられる」そんなような法律でした。

そうしたら、びっくりしたことに、その日以来、バイク乗降時には、誰も彼もみな男も女も
若い人も年寄りもみな、ヘルメット着用になりました。
いっせいにです。私がみた限り、その日以来着用していない人など、ほとんどいませんでした。
見事なものです。

何故みな突然ヘルメットを着用するようになったのか?
みな突然、良いお勧めを守るようになったのか?みな、交通ルールを守ることに良心が目覚めたのか?
はたまた、みな、ヘルメット非着用の危険性に気付いたのか?

そうではないと思います。そうではなくて、みな、罰則を犯して、警察につかまり、
高額の罰金を払いたく無いからなのです。だから、法律施行の日以来誰も彼もヘルメットを着用するようになったのです。

この時私は一つの学びをしたと思いました。すなわち人はみな、理想や道徳ではなく、しかし、
罰を恐れて行動を変えるのだということを理解したのです。
 

伝道のことに話を戻しますが、ですから、私達クリスチャンも神を離れた人々に下される審判、罰に
ついて語ることは大事だと思います。
ただ、おどかせば良いというものでもないのでしょうが、しかし、後の日の審判については、
聖書に明記されているからです。
以下のようにです。

”黙示録20:12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。
14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。”

上記の様にいのちの書に名前の記されていない人は、火の池に投げ込まれるということが、
聖書の結論であり、誰もこれを変えることなどできないのです。

神を知らない人の末路はこのようなものなのです。
このことを、私達は語らなければなりません。

何故なら、みな、たかをくくっている、もしくは単純に無知なのです。
死んだら星になるとか、千の風になるとか、トンでもない、嘘を信じ込んでいるのです。
だから誰も神を恐れないのです。

しかし、聖書が語る真実を見れば、行いを変えるかもしれません。
パウロの言葉に恐れを抱いたペリクスのように。

ですから、私達は伝道ということに関しても福音派に伝わる人間的な方法ではなく、しかし、
聖書に基づいた方法を再考すべきです。

審判に関することばを省いた、ワサビ抜き、塩なしのような福音を伝えるべきではありません。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
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