No. 721 奉仕を指定する(3)

テキスト;民4:
21 ついで主はモーセに告げて仰せられた。
22 「あなたはまた、ゲルション族の人口調査を、その父祖の家ごとに、その氏族ごとに行ない、
23 三十歳以上五十歳までの者で会見の天幕で務めを果たし、奉仕をすることのできる者をすべて登録しなければならない。
24 ゲルション人諸氏族のなすべき奉仕とそのになうものに関しては次のとおりである。
25 すなわち幕屋の幕、会見の天幕とそのおおい、その上に掛けるじゅごんの皮のおおい、会見の天幕の入口の垂れ幕を運び、
26 また庭の掛け幕、幕屋と祭壇の回りを取り巻く庭の門の入口の垂れ幕、それらのひも、およびそれらに用いるすべての用具を運び、これらに関係するすべての奉仕をしなければならない。
27 彼らのになうものと奉仕にかかわるゲルション族のすべての奉仕は、アロンとその子らの命令によらなければならない。あなたがたは、彼らに、任務として、彼らがになうものをすべて割り当てなければならない。
28 以上がゲルション諸氏族の会見の天幕においての奉仕であって、彼らの任務は祭司アロンの子イタマルの監督のもとにある。”

本日は、「奉仕を指定する(3)」としてこの箇所をさらに見ていきたいと思います。

テキストに沿って見ます。
 

”21 ついで主はモーセに告げて仰せられた。
22 「あなたはまた、ゲルション族の人口調査を、その父祖の家ごとに、その氏族ごとに行ない、
23 三十歳以上五十歳までの者で会見の天幕で務めを果たし、奉仕をすることのできる者をすべて登録しなければならない。”

ゲルション族もまた、レビ人の一つの一族です。
彼等はレビ人なので、主に仕える働きをにないます。
そして、それらの人々を全て登録すべきことが書かれています。
このことの現在における意味合いは?
いわんとしていることはこういうことでしょうか。
今の時代においても、教会でレビ人、主につく者として歩む者は神の前に登録されている、
覚えられ、区分されている、そのようなことでしょうか。

”24 ゲルション人諸氏族のなすべき奉仕とそのになうものに関しては次のとおりである。
25 すなわち幕屋の幕、会見の天幕とそのおおい、その上に掛けるじゅごんの皮のおおい、会見の天幕の入口の垂れ幕を運び、
26 また庭の掛け幕、幕屋と祭壇の回りを取り巻く庭の門の入口の垂れ幕、それらのひも、およびそれらに用いるすべての用具を運び、これらに関係するすべての奉仕をしなければならない。”
 

彼等の奉仕は、幕屋の幕などを運ぶ奉仕です。それは、会見の天幕に関する奉仕です。
教会も神と人とが会見する場所です。ですから、ゲルション族の奉仕はまた、
現在の教会における奉仕と重なります。
教会の奉仕に連なる人々はまず、レビ人、すなわち、主につく者でなければ成りません。
それとともに、ゲルション、追放者、すなわち、この世から出たものでなければならないのです。
 

”27 彼らのになうものと奉仕にかかわるゲルション族のすべての奉仕は、アロンとその子らの命令によらなければならない。あなたがたは、彼らに、任務として、彼らがになうものをすべて割り当てなければならない。”

このゲルション族の奉仕もまた、「アロンとその子らの命令によらなければならない」ことが
書かれています。ですから、彼等会見の奉仕に携わる者も、自分の考えや思い付きの下で何でもすればよいというのではなく、しかし、「アロンとその子らの命令」によること、すなわち、啓示の光をもたらす者のいわれたことを行うべきなのです。

具体的にどういうことかというと、教会において、どう適用すべきかというと、
主の奉仕に携わる人はその奉仕を行うことは感謝ですが、しかし、そこには、制限がある、
すなわち、教会において啓示の光をもたらす人々の指事の下に行うべきなのです。

たとえば、証を行うとします。今度の伝道会で、自分としては、このスリル一杯、ドラマ的な証を何が何でもしたい、
と思っても教会の中で、啓示を持っている人が「その証は今回は、遠慮してください」といわれたら、
そのように行うべきです。

何故なら、神が彼を通してそう語っている、今回はその証はふさわしくない、と語っておられる可能性があるからです。それは、アロン、光をもたらす者、神からの啓示の光を受けている人でなければわからないからです。

しかし、もし、その証を行う予定の彼が、そのドラマチックな証を今回は遠慮し、
他のもっとふさわしい証を行うなら、その伝道会における神のみこころは行われます。
また、教会全体の奉仕として的外れなものとはなりません。

ですから、この原則、レビ人は奉仕を行うべきであるが、しかし、その奉仕を実行する際、
アロンの子ら、光をもたらす者の指事の下で行うという原則がとても大事なのです。
 


28 以上がゲルション諸氏族の会見の天幕においての奉仕であって、彼らの任務は祭司アロンの子イタマルの監督のもとにある。”

ここでもゲルション族の奉仕が、監督の下でアロンの子、光をもたらす者の監督の下で行われることが書かれています。このことがよくよく大事なことであることがわかります。
そんなわけで、この箇所の結論は我々は主の奉仕をになうべきであるし、そのことは尊いのですが、
しかし、その反面何でも思った通り行うというより、教会の中で、光、啓示を受けた人の指事の下で行う、そのことが大事である、それを知りましょう。

終末における主のみこころをおこないましょう。

ー以上ー -----------------------------7dab101a02e4 Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream