本日は、 奉仕を指定する(2)としてこの件をさらに見ていきたいと思います。
”11 また金の祭壇の上に青色の布を延べなければならない。それをじゅごんの皮のおおいでおおい、かつぎ棒を通す。
12 聖所で務めに用いる用具をみな取り、青色の布の中に入れ、じゅごんの皮のおおいでそれをおおい、これをかつぎ台に載せ、
13 祭壇から灰を除き、紫色の布をその上に延べる。
14 その上に、祭壇で用いるすべての用器、すなわち火皿、肉刺し、十能、鉢、これら祭壇のすべての用具を載せ、じゅごんの皮のおおいをその上に延べ、かつぎ棒を通す。”
これらの奉仕はアロンの子らが行うべき奉仕です。
他の人々が行うべきことではありません。
同じく、今の教会においてもアロンの子らが行うべき奉仕と、それ以外の人も行って良い奉仕とがあります。これらは厳密に区別すべきです。
「祭壇で用いるすべての用器、すなわち火皿、肉刺」等を扱う奉仕はアロンの子ら、すなわち、
啓示の光をもたらす人々が扱うべきでした。同じく、主の祭壇、礼拝に関わる全ての奉仕の按配や、
火皿すなわち、聖霊に関することも今の時代のアロンの子ら、すなわち、啓示の光を受ける人々が
行うべきなのです。そうでないなら、混乱と俗世とが教会に入り込みます。
”15 宿営が進むときは、アロンとその子らが聖なるものと聖所のすべての器具をおおい終わって、その後にケハテ族がはいって来て、これらを運ばなければならない。彼らが聖なるものに触れて死なないためである。これらは会見の天幕で、ケハテ族のになうものである。”
さてこの箇所ですが、アロンの子らでない、ケハテ族が奉仕のため入って来ました。
彼等は聖なる奉仕の一部をになうのですが、しかし、何でもしてよい、何でもさわってよい、というわけではなく、逆に「アロンとその子らが聖なるものと聖所のすべての器具をおおい終わって、その後にケハテ族がはいって来」ることが語られています。
ですから、ここでも語られていることは主の祭壇のもっとも主要な部分、重要な部分は、
アロンの子ら、すなわち、光を運ぶもの、啓示を運ぶ者が行うべきなのです。
アロンの子らでないケハテ族もこの器具を運び、奉仕の一端をになうのですが、
しかし、彼等が行うのは、「アロンとその子らが聖なるものと聖所のすべての器具をおおい終わって」からなのです。
その理由として、「彼らが聖なるものに触れて死なないためである。」ことが書かれています。
ですから、ここで学ばなければならないことは、このことです。
すなわち、祭壇の奉仕、主の前の奉仕に、立つべき人そうでない人の区別がある、これは前提です。
そしてそれだけでなく、奉仕をする人にも区分がある、そのことなのです。
具体的に教会にあわせて考えるなら、教会の奉仕に関してもその区分がある、
そのことです。
ある人たちは、アロンの子らのように、もっとも聖なるもの、祭壇のもっとも中心的な部分、
本質的な部分の奉仕をまかされます。彼等はアロン、光をもたらす者、啓示をもたらす者なので、
その奉仕をまかされるべき人々です。
しかし、その一方、祭壇の奉仕にあずかりはするものの、その奉仕に制限がある人々がいます。
具体的には教会の奉仕に参加するが、しかし、神の前にする奉仕には制限がある人々がいるのです。
それらの人に対しては神の与えた制限の中で、奉仕をになわせるべきです。
その指事はアロンの子ら、すなわち、啓示を受ける人々から、
与えられるべきなのです。
具体的にはたとえば、パンの奉仕、みことばのメッセージなどを彼等は行うべきではありません。
もしあえてそうするなら、彼等は深刻な害をうけるようになるでしょう。
「彼らが聖なるものに触れて死なないためである」とは意味なく書かれたことばではないのです。
”16 祭司アロンの子エルアザルの責任は、ともしび用の油、かおりの高い香、常供の穀物のささげ物、そそぎの油についてであり、幕屋全体とその中にあるすべての聖なるものと、その用具についての責任である。」”
アロンの子、エルアザルの奉仕には制限がありません。彼は祭壇の奉仕のもっとも
大事な部分をまかされています。ともしび用の油とは、聖霊の油こと、また、かおりの高い香とは
祈りのこと、常供の穀物のささげ物とは、みことばのメッセージのことなのです。
これらは、アロンの子、光をもたらし、啓示をもたらす人々が行う奉仕なのです。
”
17 ついで主はモーセとアロンに告げて仰せられた。
18 「あなたがたは、ケハテ人諸氏族の部族をレビ人のうちから絶えさせてはならない。
19 あなたがたは、彼らに次のようにし、彼らが最も聖なるものに近づくときにも、死なずに生きているようにせよ。アロンとその子らが、はいって行き、彼らにおのおのの奉仕と、そのになうものとを指定しなければならない。”
さて、ここでは、レビ人の中のケハテ族の中に関して、彼等が行うべき奉仕を
アロンの子らが指定すべきことが書かれています。このことの意味合いは何でしょう。
一つはレビ人、主につく人々の中にも区分があり、ある主の人々は、ケハテ、会衆、群集の歩みをします。また、アロンの子らのように、光をもたらす、啓示をもたらす者としての歩みもあります。
ケハテ、群集の歩みをする人々は、必ず、アロンの子ら、啓示を受けた人の指事に従って、
教会の奉仕をなすべき、そう語られているように思えます。
「彼らにおのおのの奉仕と、そのになうものとを指定しなければならない。」と書かれています。
ですから、教会の中でも群集の歩みをする人々に対して、彼等がどのようにでも勝手に奉仕を行うことを許すべきではありません。
あくまで彼等は上に立つ、光を受け、啓示を受けている人々の指事の下で奉仕を行うべきです。
この線を決して妥協するべきではないのです。
このことは彼らに対して守りになります。「 あなたがたは、彼らに次のようにし、彼らが最も聖なるものに近づくときにも、死なずに生きているようにせよ。」とおごそかに書かれているからです。
奉仕は正しく行えば、恵みですが、不適切に行うなら、その人を滅ぼし、神の裁きをもたらすからです。
"
20 彼らがはいって行って、一目でも聖なるものを見て死なないためである。」”
ケハテ族、群集の歩みをする人々には、聖なるものに近付くことが許されていません。
あえてそれを見、行うなら、それは死をもたらします。正しく正しく行うべきです。
終末における主のみこころを行いましょう。
ー以上ー