NO.715 勇士ナアマンのらい病(3)


”テキスト:第二列王5:
20 そのとき、神の人エリシャに仕える若い者ゲハジはこう考えた。「なんとしたことか。私の主人は、あのアラム人ナアマンが持って来た物を受け取ろうとはしなかった。主は生きておられる。私は彼のあとを追いかけて行き、必ず何かをもらって来よう。」
21 ゲハジはナアマンのあとを追って行った。ナアマンは、うしろから駆けて来る者を見つけると、戦車から下りて、彼を迎え、「何か変わったことでも。」と尋ねた。
22 そこで、ゲハジは言った。「変わったことはありませんが、私の主人は私にこう言ってよこしました。『たった今、エフライムの山地から、預言者のともがらのふたりの若い者が私のところにやって来ましたから、どうぞ、彼らに銀一タラントと、晴れ着二着をやってください。』」
23 するとナアマンは、「どうぞ。思い切って二タラントを取ってください。」と言って、しきりに勧め、二つの袋に入れた銀二タラントと、晴れ着二着を、自分のふたりの若い者に渡した。それで彼らはそれを背負ってゲハジの先に立って進んだ。
24 ゲハジは丘に着くと、それを彼らから受け取って家の中にしまい込み、ふたりの者を帰らせたので、彼らは去って行った。
25 彼が家にはいって主人の前に立つと、エリシャは彼に言った。「ゲハジ。あなたはどこへ行って来たのか。」彼は答えた。「しもべはどこへも行きませんでした。」
26 エリシャは彼に言った。「あの人があなたを迎えに戦車から降りて来たとき、私の心もあなたといっしょに行っていたではないか。今は銀を受け、着物を受け、オリーブ畑やぶどう畑、羊や牛、男女の奴隷を受ける時だろうか。
27 ナアマンのらい病は、いつまでもあなたとあなたの子孫とにまといつく。」彼は、エリシャの前から、らい病にかかって雪のように白くなって、出て来た。”
 

本日は「勇士ナアマンのらい病(3)」としてこの件をさらに見ていきたいと思います。

テキストに沿って見ます。


20 そのとき、神の人エリシャに仕える若い者ゲハジはこう考えた。「なんとしたことか。私の主人は、あのアラム人ナアマンが持って来た物を受け取ろうとはしなかった。主は生きておられる。私は彼のあとを追いかけて行き、必ず何かをもらって来よう。」”

さて、ここでエリシャに仕える若い者ゲハジは、このエリシャのした行為、
ナアマンからの贈り物を拒否することをもったいない、と思いました。
それで、エリシャがもらわないなら、自分だけでも
その贈り物をもらおうと思ったのです。
彼の考えは我々の常識的に見て、得に問題がないように思えます。
せっかくの申し出をエリシャが受けないなら、ゲハジがもらって何の問題があるのでしょう?

”21 ゲハジはナアマンのあとを追って行った。ナアマンは、うしろから駆けて来る者を見つけると、戦車から下りて、彼を迎え、「何か変わったことでも。」と尋ねた。
22 そこで、ゲハジは言った。「変わったことはありませんが、私の主人は私にこう言ってよこしました。『たった今、エフライムの山地から、預言者のともがらのふたりの若い者が私のところにやって来ましたから、どうぞ、彼らに銀一タラントと、晴れ着二着をやってください。』」”

ゲハジはナアマンから銀と晴れ着とをもらうことにしました。
 

”23 するとナアマンは、「どうぞ。思い切って二タラントを取ってください。」と言って、しきりに勧め、二つの袋に入れた銀二タラントと、晴れ着二着を、自分のふたりの若い者に渡した。それで彼らはそれを背負ってゲハジの先に立って進んだ。
24 ゲハジは丘に着くと、それを彼らから受け取って家の中にしまい込み、ふたりの者を帰らせたので、彼らは去って行った。”

ナアマンは喜んでゲハジに贈り物を渡しました。申し出以上の銀を渡したのです。

”24 ゲハジは丘に着くと、それを彼らから受け取って家の中にしまい込み、ふたりの者を帰らせたので、彼らは去って行った。
25 彼が家にはいって主人の前に立つと、エリシャは彼に言った。「ゲハジ。あなたはどこへ行って来たのか。」彼は答えた。「しもべはどこへも行きませんでした。」”

このことをゲハジは誰にもいわなかったのに、エリシャは知っていました。
エリシャは神の人ですから、神はそのことを知っていることがわかります。
 

"
26 エリシャは彼に言った。「あの人があなたを迎えに戦車から降りて来たとき、私の心もあなたといっしょに行っていたではないか。今は銀を受け、着物を受け、オリーブ畑やぶどう畑、羊や牛、男女の奴隷を受ける時だろうか。
27 ナアマンのらい病は、いつまでもあなたとあなたの子孫とにまといつく。」彼は、エリシャの前から、らい病にかかって雪のように白くなって、出て来た。”
 

彼、ナアマンからの銀、着物を受けたゆえ、ナアマンのらい病は、
ゲハジにいつまでもまといつきました。
これは、我々に対する教訓です。
同じく我々が現代の アラム、ダマスコすなわち、敬虔主義や行い主義、沈黙の行やら、
荒布を着た修行の道を歩み、真に主を求める道に入らないなら、そのらい病、罪は
決して我々から離れないのです。
告解は罪を解消せず、慈善も修行も罪から我々を解放せず、我々はあいかわらず、らい病の中にいるのです。

しかし、エリシャのいうように、ヨルダン川で7度、身を浸し、
聖霊により、浸される人はこれらの罪から解放され、らい病からいやされるのです、
このことを知りましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー ------------aJHHF5zBUPsSdhGv8m0VNX Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename=""