NO.713 勇士ナアマンのらい病


”テキスト:第二列王5:1 アラムの王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。主がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。この人は勇士ではあったが、らい病にかかっていた。
2 アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から、ひとりの若い娘を捕えて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていたが、
3 その女主人に言った。「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのらい病を直してくださるでしょうに。」
4 それで、ナアマンはその主君のところに行き、イスラエルの地から来た娘がこれこれのことを言いました、と告げた。
5 アラムの王は言った。「行って来なさい。私がイスラエルの王にあてて手紙を送ろう。」そこで、ナアマンは銀十タラントと、金六千シェケルと、晴れ着十着とを持って出かけた。
6 彼はイスラエルの王あての次のような手紙を持って行った。「さて、この手紙があなたに届きましたら、実は家臣ナアマンをあなたのところに送りましたので、彼のらい病から彼をいやしてくださいますように。」
7 イスラエルの王はこの手紙を読むと、自分の服を引き裂いて言った。「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人はこの男を送って、らい病を直せと言う。しかし、考えてみなさい。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。」
8 神の人エリシャは、イスラエルの王が服を引き裂いたことを聞くと、王のもとに人をやって言った。「あなたはどうして服を引き裂いたりなさるのですか。彼を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」
9 こうして、ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立った。
10 エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」”

本日は、「勇士ナアマンのらい病」という題でメッセージをしたいと思います。

テキストに沿って見ていきます。

”1 アラムの王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。主がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。この人は勇士ではあったが、らい病にかかっていた。”
 

ここで、アラムの将軍ナアマンに関する話が出てきます。

このナアマンをどうとらえ、理解するかという問題があります。
どう考えるべきなのでしょうか?

アラムはイスラエルとは違うから異邦人だ、クリスチャンとは全然違う、そういう考えもあるでしょうが、
必ずそれが正しいとはいえないと思われます。

何故なら、「主がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。」と書かれているからです。
彼は旧約の神である主と関係のある人物なのです。

このナアマンの問題はですから、クリスチャンの問題と無関係ではないのです。
というより、彼はこの種のクリスチャン、すなわち、勇士であるが、しかし、
秘かにらい病をわずらっているクリスチャンの型なのです。

彼は勇士であり、今の新約のクリスチャンにおける勇士の型です。
クリスチャンの勇士とは?

すなわち伝道をしてたくさんの人を救いに導く、海外宣教に従事する、
大きな集会でメッセージをする説教家、そんな類いの人なのです。

キリスト教会に名前がとどろく程、有名な奉仕者、しかし、
一方らい病をわずらっている人、それがナアマンをもってたとえられるクリスチャンです。
らい病の意味合いは何でしょう?
 

らい病は明らかに罪に関するたとえです。
いつだか、某クリスチャン向け新聞に、「らい病は罪の象徴ではない、そんな差別に反対する」なんていう記事が大きく載っていましたが、本当に不遜な行いです。何を罪の象徴とするかは、神が定めるものであり、
どのように、何を聖書に書くかも、神が定めるものです。勝手に人や新聞が定めたり、
禁じるものではありません。
 

「この人は勇士ではあったが、らい病にかかっていた。」
 

勇士であり、神のすばらしい働きに従事しているがしかし、ひそかにその体にらいがある、
罪がある、こんなことはあってはならないが、しかし、現実に往々として起こり得ることです。
ここでは、その問題を取り扱っているのです。
一体どのようにして、その悩みの種であるらい病、罪から解放されるか、それをここでは
扱かっているのです。
 

”2 アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から、ひとりの若い娘を捕えて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていたが、
3 その女主人に言った。「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのらい病を直してくださるでしょうに。」
4 それで、ナアマンはその主君のところに行き、イスラエルの地から来た娘がこれこれのことを言いました、と告げた。”

さて、ここでナアマンはイスラエルの王がこのらい病をなおしてくれることを聞きそこへ
行くことを決意します。
我々も、もし彼の様に、勇士ではあっても隠れたらい病、罪に悩んでいるなら、知らなければなりません。イスラエルの神にこそ、救いといやしがあることを。


5 アラムの王は言った。「行って来なさい。私がイスラエルの王にあてて手紙を送ろう。」そこで、ナアマンは銀十タラントと、金六千シェケルと、晴れ着十着とを持って出かけた。”

この時、ナアマンはアラムの金銀と晴れ着を持ってでかけました。
この金銀と晴れ着はエリシャから拒否されました。このことに関するたとえも
大事なことを我々に語ります。


7 イスラエルの王はこの手紙を読むと、自分の服を引き裂いて言った。「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人はこの男を送って、らい病を直せと言う。しかし、考えてみなさい。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。」

さて、このナアマンの病がなおることに関してイスラエルの王とエリシャの見解は異なります。
イスラエルの王は自分は神でないので、それはできない、というのです。
今のイスラエル、カソリックの王、ローマ法皇の見解も同じようなものでしょう。
カソリックを通して罪からの解放など、あり得ない、そんなところがこの教会のトップの本音でしょう。
 

”8 神の人エリシャは、イスラエルの王が服を引き裂いたことを聞くと、王のもとに人をやって言った。「あなたはどうして服を引き裂いたりなさるのですか。彼を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」”

神の人エリシャの見解はしかし、異なります。
この国にはらい病をいやす神がおられること、またこの国には預言者がいることを
彼は語ったのです。
 

ですから今のカソリックも、求めるなら、この罪、らい病からの解放はあり得るのです。

”9 こうして、ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立った。
10 エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。”
 

ここでエリシャはナアマン、勇士であるが、しかし、らい病をわずらっている人物に
対して、それからいやされるために、きよくなるために、ヨルダン川で
七たび身をひたすことを語ります。

これは、直接的にはナアマンに対して語られた言葉ですが、
しかし、聖書のことばは勿論、現代の我々に対しても語られた言葉なので、
これは、全て、主の前に信仰の勇士ではあるが、しかし、らい病、罪を秘かにわずらっている
人への福音なのです。

「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい」

このことの意味合いは何でしょう。
ヨルダン川は
バプテスマのヨハネが洗礼、バプテスマを授けたところです。
バプテスマの意味合いはしみとおる、という意味合いです。ですから、
ここでいわれているのは、聖霊にひたされる、しみとおる、ということです。

7度ですから、一回や二回ではなく、七回、完全に聖霊に浸され、
しみとおることが語られているのです。

そして、それが私達のらい病、隠れた罪をいやし、きよめる唯一の方法なのです。

聖霊にひたされる?具体的にはどうすればよいのでしょうか?
具体的には祈ることです。

祈りの中で聖霊により、バプテスマ、浸されることです。
七度と書いてあるのですから、一度や二度ではなく、七回は祈り、
聖霊に触れ、浸され、いやされていくその罪のらい病は消えていく、
そのことがここでは描かれているのです。
このことを捕らえましょう。
 

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー ------------G2sav8rZ4dwOM6i2DNLBLu Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename=""