NO.709女性と権威のしるし


”テキスト:1コリ11:3 しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。
4 男が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていたら、自分の頭をはずかしめることになります。
5 しかし、女が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることになります。それは髪をそっているのと全く同じことだからです。
6 女がかぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭をそることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。
7 男はかぶり物を着けるべきではありません。男は神の似姿であり、神の栄光の現われだからです。女は男の栄光の現われです。
8 なぜなら、男は女をもとにして造られたのではなくて、女が男をもとにして造られたのであり、
9 また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。
10 ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。それも御使いたちのためにです。
11 とはいえ、主にあっては、女は男を離れてあるものではなく、男も女を離れてあるものではありません。
12 女が男をもとにして造られたように、同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から発しています。
13 あなたがたは自分自身で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのは、ふさわしいことでしょうか。
14 自然自体が、あなたがたにこう教えていないでしょうか。男が長い髪をしていたら、それは男として恥ずかしいことであり、
15 女が長い髪をしていたら、それは女の光栄であるということです。なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。
16 たとい、このことに異議を唱えたがる人がいても、私たちにはそのような習慣はないし、神の諸教会にもありません。”

本日は、「女性と権威のしるし」という題でメッセージしたいと思います。
教会の中で女性が奉仕をなす機会も多いでしょうが、そのことに関して聖書がどういっているのか、それを見ていきたいと思います。

男女の関係がどうあるべきか、ということに関して、世の中では、男女は平等であり、民主主義は正しい、
そういうことになっているのです。
私も一応戦後生まれなので、そんなことばは知っていますし、このようなことばが戦後、
獣の国アメリカから、持ち込まれたことは知っていますが、問題は獣がどういうかではなく、聖書はどういうかです。

あまり男女の違いを強く強調するのは、不本意です。何故なら、個人的には、
男女のちがいなどより、その人が弟子かどうかがずっと大きな問題、違いと思っているからです。恐らく聖書的にもそうでしょう。
そうではあっても、この箇所では、男女の違いについて書いてありますので、ある程度はそれを見ていきたいと思うのです。

前置きが多いようですがもう一つのこともいっておきます。
それは、男女の違いとはあくまでもこの世だけのもの、地上における違い、
永遠の世界ではあまり関係ない、一時的なものに過ぎないということです。
ですから、男が上だなんて許せない、という女性もいるでしょうけれど、それはあくまで、
この世におけることに過ぎません。
日本人に生まれたとか、背が高い、低い、美人、不美人なんてことも一時的なこの世のことに過ぎないように、男女の区分のこともこの世のことに過ぎません。
永遠に男がえばっているわけでも、また永遠に女性が男性より、一段低い位置にあるわけでもないのです。後の世では、男女の区分はないことが聖書には明言されているからです。ですから、大事なことは、
現在の状況、男とか女とか、日本人とか、妻であるとか独身だとか、
の制限、環境の中で、主に正しく仕えていくこと、それが永遠につながる、そう思えるのです。
 

女はだめだと卑下をしたり、また、男なんかに負けるか、何もいうことなど聞く必要はない、
などと変な対抗心をもやしたりせず、淡々と主のことばに従う人に、後の日の大きな祝福があると
思えるのです。みことばに沿って見て行きましょう。

”3 しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。”

女の頭は男であることが書いてあります。
かしら、あたまは人間の体の一番上に位置する器官です。
ですから、かしらということばをさして、トップ、権威が上のもの、上下関係の上にあたる
人、そう理解できます。

ですから、女のかしらは男という時、女性は自分の上のもの、権威者として、
男に従え、そういう意味合いのことがここでは語られているのです。
納得いかない、という女性の方もいるかもしれませんが、しかし、聖書のこの箇所は明らかにそう語っています。

”4 男が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていたら、自分の頭をはずかしめることになります。
5 しかし、女が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることになります。それは髪をそっているのと全く同じことだからです。”
 

女性が祈りや預言をするとき、頭にかぶり物をつけることが書かれています。
すなわち、女性は祈り、預言をする時、頭の上に、すなわち、自分の上に誰か男性の権威者を置くべきなのです。そして、その指示をあおぐべきなのです。

何故か?私もあまり理由はわからないのですが、恐らくは惑わされないためです。
何故なら、祈りにも預言にも惑わされるということがあり得るからです。

女性が預言をして、そしてそれを誰も制御するひとがいない、
教会の中で、誰も彼女を指導したり、何かを語る人がいない、という場合、女性が
惑わしに入るととめる人が誰もいなくなります。

はっきりいいますが、聖書にあるように女性は男性より、弱い器であり、惑わされる可能性は男性より多いです。エデンの園でもアダムではなく、エバが惑わされたのです。
女性の預言が惑わされるなら、「あのキムタク似の兄弟は私と結婚するよう神様が命じています」なんて、
おかしなことを言い出す可能性がまったくなきにしもあらずです。
それで、女性には頭にかぶりもの、自分の上の権威者を持つことが勧められているのです。


7 男はかぶり物を着けるべきではありません。男は神の似姿であり、神の栄光の現われだからです。女は男の栄光の現われです。”

男はかぶり物を着けるべきではないことが書かれています。
自分の上に権威者をもたないことが語られているのです。
ですから、男は男でなすべきことがあるのです。
それは、そう神に語られたら、立つべきところに立つ、ということです。
たとえ、自分に自信がない、気が弱い、ということがあったとしても、
立つべき時にはその場所に立つべきです。
教会でも、家庭でも立つべきところに立たなければならないのなら、立つべきなのです。


8 なぜなら、男は女をもとにして造られたのではなくて、女が男をもとにして造られたのであり、
9 また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。”

「女が男のために造られたのだからです。」と書かれています。こんなことばも女性に
怒られそうですが、しかし、聖書のことばなので尊重すべきと思います。

女性はエバの時、明らかに助け手、男性の助け手として創られました。
ですから、一般的に女生とは助け手の働きをなす時、もっとも光を放つ存在と思われます。

”10 ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。それも御使いたちのためにです。”

女性は権威のしるしをかぶるべき、男性の指示を受けることが書かれています。
不本意な女性もいるかもしれませんが、しかし、
聖書にそう書かれていることは、尊重した方がよいだろうと、思います。
そんなみことばなんか、聞かない、独立独歩で行くという女性もいるかもしれません。
しかし、やっぱりみことばは無視できません。
とてもやり手、伝道もよくでき、よく祈る、そんな女性でも、
男性の指導者なしで独立独歩でやっていくと、
肝心なところで、変な惑わしに入ってしまったり、間違えてしまうという例を個人的に
見ています。「誰かしかるべき男性の意見をきいたらよかったのに..。」と
残念に思うことがないでもありません。
 

「それも御使いたちのためにです。」

ここでは、御使いのために、女性が権威のしるしをかぶるべきことが
書かれています。

何故なのでしょう?
察するに御使いが神に従わない、権威のしるしなど、持とうとしないからでは、思われます。
事実御使いのトップ、サタンは神に反逆していますから、恐らくそうなのでしょう。
ある意味、女性の従い、従順は御使いに対して模範を示すものとなるのでしょう。
 

”11 とはいえ、主にあっては、女は男を離れてあるものではなく、男も女を離れてあるものではありません。
12 女が男をもとにして造られたように、同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から発しています。”

女性は男性なしで、やっていくことは困難かもしれないし、同じく男性も女性なしで、
全てをこなすことは、困難です。互いに必要としているのです。

”13 あなたがたは自分自身で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのは、ふさわしいことでしょうか。
14 自然自体が、あなたがたにこう教えていないでしょうか。男が長い髪をしていたら、それは男として恥ずかしいことであり、
15 女が長い髪をしていたら、それは女の光栄であるということです。なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。
16 たとい、このことに異議を唱えたがる人がいても、私たちにはそのような習慣はないし、神の諸教会にもありません。”
 

女性が長い髪を好み、それが自然であるように、女性は髪で象徴される
権威を上におくのが自然なのです。
そして、神がそうされたのなら、女性の上に権威を置くことを定めたのなら、我々はそれをまもることが、益となります。

私達は神がそれぞれに置いた場所、地位、立場において、主に従っていきたいと
願っています。ある人が、会社に入り、平社員になり、その上に課長、部長、社長と
権威の人がいるなら、その権威を
重んじ、尊重するべきです。彼がそのような立場におかれたら、クリスチャンとしても
そうすべきなのです。
 

同じように、女性は神により、上に権威を置く存在として創られました。
それなら、そのことを尊重し、上に権威を置くことをお勧めします。
それは、神がそう定めたこと、また神のことばは、守るものに祝福があるからです。

残念なことには、多くの女性のクリスチャンが独立独歩、権威などどこ吹く風という
歩みに入り、結果、惑わしや、的外れに入っています。他人から見れば、
自分が惑わしに入っているかどうかは、自分の今の環境を考えれば、いやでもわかると思えるのですが、
しかし、実際は、女性が自分の上に権威を置くことを拒否するとその惑わしが、なかなかわからないものなのです。誰も彼女の暴走をとめるものがありません。

逆に女性がそのあるべきところに留まり、権威を尊重するなら、その女性は惑わしや
誤りから守られています。
これは、能力や、熱心さの問題ではなく、神のことばを尊重するかどうかの
違いです。

色々な考えがあるかもしれませんが、この点においても、主のことばを尊重するものに
助けがあります。

繰り返しますが、男と女の区分はこの世のことだけに過ぎません。
しかし、今、私達がそれぞれの立場、男とか、女とかの立場の中で、どう主に仕えるかは永遠と関係あることがらであることを知りましょう。

終末におけるみこころを行いましょう。

−以上ー -----------------------------86977957554930201248078096 Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream