NO.708恐るべきかなこのところ(2)


テキスト:
”創世記28:10 ヤコブはベエル・シェバを立って、カランへと旅立った。
11 ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。
12 そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。
13 そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。
14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。
15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」
16 ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言った。
17 彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」
18 翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。
19 そして、その場所の名をベテルと呼んだ。しかし、その町の名は、以前はルズであった。
20 それからヤコブは誓願を立てて言った。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路で私を守ってくださり、私に食べるパンと着る着物を賜わり、
21 私が無事に父の家に帰ることができ、主が私の神となってくださるので、
22 私が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私は必ずあなたにささげます。」”
 

本日は、「恐るべきかなこのところ(2)」としてこの件をさらに見ていきたいと思います。
テキストに沿って見ます。

”10 ヤコブはベエル・シェバを立って、カランへと旅立った。
11 ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。”

これは、ヤコブに関する物語です。ヤコブは後のイスラエルであり、イスラエル全部族の先祖、
また新約のイスラエル、クリスチャンの霊的先祖でもあります。
ですから、この話は全教会に関係する話なのです。

”彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。”

神の家、教会という時、ポイントは、石なのです。石は小石の意味合いのある、弟子ペテロに
通じます。すなわち、弟子の歩みにポイントがあるのです。

”12 そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。”

さて、この場所、神の家は、非常に不思議で特殊なところです。
そこには、何と、天からのはしごがかかっている場所なのです。そして、
実際にそのはしごは機能し、何と、「神の使いたちが、そのはしごを上り下りして」いたのです。

これは何を現しているのか?それは単にヤコブが素晴らしい夢を見た、彼が信仰的だ、というのではなく、
神の家、教会の霊的な現状、その特権を現したものです。

その場所、神の家、教会を表すのに、「一つのはしごが地に向けて立てられている」と
書かれていることは象徴的です。

教会の特殊性、それは何と、天に通じる道、はしごがかかっていることなのです。
SFかファンタジーに思われるかもしれませんが、聖書に明記されているのですから、
本当にそうなのです。

天にはしごがかかっていると何がいいかというと、要するに教会には天、神の御座に
特別なパイプ、特別な関係がある、そういうことなのです。

このはしごについて他では書いてありませんし、エジプトのパロの家にもはしごがあると
書いてありませんので、これは神の家、教会だけに許された特権なのです。

「一つのはしごが地に向けて立てられている。」

このはしごは天から地に向けて立てられていました。
このことからわかることは、このはしごを立てることは天におられる神の意志なのです。
だから、天から地に向けて立てられているのです。
そしてもう一つわかることは、神は
地上のどこかに天からのはしごをかける場所を探しておられた。そして選ばれた場所が、
神の家、ベテルだったということです。

もっとわかりやすくいうなら、今でも神はこの地上にはしごを立てる場所、
天の働きの拠点となる場所を求めておられる、そして、その唯一の場所として選ばれたのが、
ベテル、神の家、すなわち、教会である、そうこの箇所は語っているのです。

天使は神の働きの実行部隊であり、彼らははしごを通って、神の家、教会へ降りてくる、そして教会を拠点にして、神の地上における働きを実行する、そう理解できるのです。

世の中の人が持つ教会へのイメージはどんなものでしょう。
小さな建物、そこに集まってくる、善良だが、あまりお金もなさそうな人々。町の有力者も権力者も
いないので、実行力には乏しそう、そんな感じでしょうか。

人間的にはそんな風にしか見えないかもしれませんが、しかし、この神の家、教会には
驚くべき秘密があり、何とこの場所は天とつながっており、天使が上り下りするところである
、このことを覚えるべきです。

この天使のパワーは、使徒行伝でペテロが捕まった時、いかんなく発揮されました。
教会の祈りに答え、天使はペテロの牢へ下り、彼を牢から解放したのです。

四人一組の兵士四組すなわち、16人もの兵士に囲まれたペテロを解放してしまったのです。
何ともおそるべきパワー、特権が神の家、教会には与えられているのです。

”13 そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。”

そして、教会のもう一つの素晴らしいことは、主なる神の臨在です。
そこは小さくても、神の宮なのです。

”14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。
15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」”

そして、教会に関連して神は約束を与えて下さっています。「あなたがどこへ行っても、あなたを守」るとのことなのです。ですから、私達は教会を離れるべきではありません。
何故なら、この神の家に神からの約束があるからです。
もちろん、仮庵の時は別なのですが。
 

”16 ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言った。

 

さてこの夢を見たヤコブは、自分がこの場所、ベテル、神の家を正しく理解していなかったことに気がつきました。
「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と彼は神の臨在に関して誤解していたことを理解したのです。

この誤解は単にヤコブ一人の誤解ではないと思われます。 何故なら、彼、ヤコブは前述したように、全イスラエルの始祖であり、また新約の全クリスチャンの先祖なのです。
彼が間違えたということは、すなわちどんなクリスチャンでも間違えやすいポイントである、それをいっている可能性が高いのです。

そうです、私達クリスチャンも神の家である、教会に関して誤解している場合が多いのです。
私達が主の名によって、2人でも3人でも集まっている時、それは教会であり、
そこには、神御自身が臨在されている、それを知るべきなのです。

神ご自身が居られるということを考えてみましょう。たとえば、私達自身を考えても、
金持ちの友だちが一人やってくるだけで、教会は経済的にはだいぶ助かります。
場所代も、食事代も、それから、必要なキーボードだって買ってくれるかもしれません。
そのような例では恐縮なのですが、金持ちよりさらに金持ちな方、また、
いやし主、助けぬしである方がいるなら、私達の問題のあらゆることに関する助けはすでに与えられているのです。
 
 
 

”17 彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」”

「こここそ神の家」だとヤコブはいいました。神の家とは神が住むところです。
犬の家には、犬が住み、鳥の巣、鳥の家には、鳥が住むように、神の家には神御自身が住まわれるのです。そして、それが教会の真の姿なのです。

非常に残念なことには、我々には教会には、そんな感覚が実際に感じない、神様なんてほんとは居られないように感じたりしがちなのですが、しかし、そう書いてあったのなら、それはそうなのです。

「ここは天の門だ。」

このことばは語りかけのあることばです。
門ということを考えてみましょう。
学校でも会社でも普通入るとき、門を通って入ります。
私が住んでいるところの近くに日本で一番大きいという刑務所、府中刑務所があります。そこは高い塀が巡らされ、誰も入ったり出たりできないのですが、唯一門を通って出入りできます。
ですから、この刑務所にとり、外界との接触は唯一門を通さないとないのです。

同じ意味合いで、私達が、天と接したい、神の助けを受けたいという時、やはり、門を通る必要があります。その門は世界のどこにもなく、王様の宮殿にも、議員の会議場にもなく、しかし、
唯一、神の家、教会にある、そうこの箇所は語っているのです。

いいかたを変えると教会とは、この地上で天に通じる唯一の場所なのです。
この門、天に至る門は今でも教会に備えられており信仰を持って祈るなら、必要に応じて、
天使が上り下りするのです。
 
 

"
18 翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。
19 そして、その場所の名をベテルと呼んだ。しかし、その町の名は、以前はルズであった。"
 

石が油を注がれ、そしてその場所はベテル、神の家と呼ばれました。
石は、弟子の歩みに通じ、油を注がれた石は聖霊を注がれた弟子に
通じます。

ですから、ここでいわれているのは、聖霊を注がれた弟子こそが、
教会、神の家を立てる、そのことです。

偏見なしに、聖書のいうことを伝えます。
はっきりいいますが、明らかに聖書は教会員全てとか、群集全てにみこころがあるとは、
語っていません。そうではなく、明らかに弟子の歩みのクリスチャンこそ、教会を建てあげる、
基礎となると語っているのです。ですから、私達が本当の意味合いで、
教会をたてるつもりなら、自分の教会の中で、弟子の歩みを忠実に行う人を建て上げ、訓練することが急務なのです。

弟子に関連して、この箇所は以下のキリストのことばと関係があります。
 
 

”マタイ16:17 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。
18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
19 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」”

ここでも岩、ペテロ(石の意味がある)、弟子こそが、
教会の土台であること、そここそポイントであることが語られています。

「しかし、その町の名は、以前はルズであった。」

ルズとは アーモンドという意味であり、アーモンドとは見るという意味があります。
すなわち、この神の家、教会には常に神の目が注がれている、そのことを語っているのです。

”20 それからヤコブは誓願を立てて言った。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路で私を守ってくださり、私に食べるパンと着る着物を賜わり、
21 私が無事に父の家に帰ることができ、主が私の神となってくださるので、”

神は、神の家、教会をとおして、我々をパンをすなわちみことばを与え、また着物、すなわてち裸を覆う義を与えて下さいます。そして、父の家、天の父の家に帰らせて下さいます。
 

”22 私が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私は必ずあなたにささげます。」”

石が神の家になるのです。繰り返しますが、石は砂、群集ではなく、弟子の歩みと関係します。
ですから、教会を建てようとするとき、一体どれ程、弟子が建て上がるか、それが、
肝心な部分なのです。群集ばかり、たくさん集まってもそれは烏合の衆に過ぎません。

まとめますが、この箇所を通して神は、教会、神の家の特殊性を語ります。
それは、地上で、唯一天への門があるところ、また天つへつながるはしごがあり、
現実に天使が上り下りし、神のわざをすすめるところなのです。

金がないとか、能力がないなど何の関係もありません。
信じて求めるなら、これらの神の家の実態は現実化します。
求めていきましょう。
終末における主のみこころを行いましょう。
ー以上ー -----------------------------18004823556394020032124392381 Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream