No.707 おそるべきかなこの所

”テキスト:
使徒12:1 そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、
2 ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。
3 それがユダヤ人の気に入ったのを見て、次にはペテロをも捕えにかかった。それは、種なしパンの祝いの時期であった。
4 ヘロデはペテロを捕えて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。それは、過越の祭りの後に、民の前に引き出す考えであったからである。
5 こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。
6 ところでヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれてふたりの兵士の間で寝ており、戸口には番兵たちが牢を監視していた。
7 すると突然、主の御使いが現われ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい。」と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。
8 そして御使いが、「帯を締めて、くつをはきなさい。」と言うので、彼はそのとおりにした。すると、「上着を着て、私について来なさい。」と言った。
9 そこで、外に出て、御使いについて行った。彼には御使いのしている事が現実の事だとはわからず、幻を見ているのだと思われた。
10 彼らが、第一、第二の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。そこで、彼らは外に出て、ある通りを進んで行くと、御使いは、たちまち彼を離れた。
11 そのとき、ペテロは我に返って言った。「今、確かにわかった。主は御使いを遣わして、ヘロデの手から、また、ユダヤ人たちが待ち構えていたすべての災いから、私を救い出してくださったのだ。」
12 こうとわかったので、ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ行った。そこには大ぜいの人が集まって、祈っていた。
13 彼が入口の戸をたたくと、ロダという女中が応対に出て来た。
14 ところが、ペテロの声だとわかると、喜びのあまり門を開けもしないで、奥へ駆け込み、ペテロが門の外に立っていることをみなに知らせた。
15 彼らは、「あなたは気が狂っているのだ。」と言ったが、彼女は本当だと言い張った。そこで彼らは、「それは彼の御使いだ。」と言っていた。
16 しかし、ペテロはたたき続けていた。彼らが門を開けると、そこにペテロがいたので、非常に驚いた。
17 しかし彼は、手ぶりで彼らを静かにさせ、主がどのようにして牢から救い出してくださったかを、彼らに話して聞かせた。それから、「このことをヤコブと兄弟たちに知らせてください。」と言って、ほかの所へ出て行った。
18 さて、朝になると、ペテロはどうなったのかと、兵士たちの間に大騒ぎが起こった。
19 ヘロデは彼を捜したが見つけることができないので、番兵たちを取り調べ、彼らを処刑するように命じ、そして、ユダヤからカイザリヤに下って行って、そこに滞在した。
20 さて、ヘロデはツロとシドンの人々に対して強い敵意を抱いていた。そこで彼らはみなでそろって彼をたずね、王の侍従ブラストに取り入って和解を求めた。その地方は王の国から食糧を得ていたからである。
21 定められた日に、ヘロデは王服を着けて、王座に着き、彼らに向かって演説を始めた。
22 そこで民衆は、「神の声だ。人間の声ではない。」と叫び続けた。
23 するとたちまち、主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えた。
24 主のみことばは、ますます盛んになり、広まって行った。

 

本日は、おそるべきかなこのところ、としてメッセージをします。
教会の力に関して見て行きたいと思うのです。

テキストに沿って見ていきたいと思います。
 

”1 そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、
2 ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。
3 それがユダヤ人の気に入ったのを見て、次にはペテロをも捕えにかかった。それは、種なしパンの祝いの時期であった。”
 

ヘロデは当時の神の民、ユダの王です。彼はキリストにつくヤコブを殺し、さらに
ペテロをも捕らえようとしました。
王であるヘロデの権力は、絶大であり、教会はなすすべもなく、無力にも敗北しているかのように見えます。
 


4 ヘロデはペテロを捕えて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。それは、過越の祭りの後に、民の前に引き出す考えであったからである。”

ついにペテロは捕らえられ、四人一組の兵士四組すなわち、16人もの兵により、監視されるようになったのです。もうどうあがいても彼が逃げることも助かることもあり得ないように思えます。
彼は、「過越の祭りの後に、民の前に引き出」される予定でした。過ぎ越しの祭りの時、殺されたイエスの様にペテロの命も風前の灯となったかのようです。

”5 こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。”

主イエスの教えに従った人々の教会には何の力もないかのようですが、しかし、「教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた」ことが書かれています。そして、その教会の祈りが
大変な逆転劇をもたらすのです。
 

”6 ところでヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれてふたりの兵士の間で寝ており、戸口には番兵たちが牢を監視していた。
7 すると突然、主の御使いが現われ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい。」と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。
8 そして御使いが、「帯を締めて、くつをはきなさい。」と言うので、彼はそのとおりにした。すると、「上着を着て、私について来なさい。」と言った。
9 そこで、外に出て、御使いについて行った。彼には御使いのしている事が現実の事だとはわからず、幻を見ているのだと思われた。
10 彼らが、第一、第二の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。そこで、彼らは外に出て、ある通りを進んで行くと、御使いは、たちまち彼を離れた。
11 そのとき、ペテロは我に返って言った。「今、確かにわかった。主は御使いを遣わして、ヘロデの手から、また、ユダヤ人たちが待ち構えていたすべての災いから、私を救い出してくださったのだ。」”

驚くべき逆転劇がこの時行われ、ペテロは奇跡的に救われたのです。
さて、このことはすごいのですが、しかし、このことについての
学びをしたいと思うのです。
単純にこの箇所を読むだけなら、「ペテロはやっぱりすごい、神の奇跡を見ている、
それに引きかえ、私は......。」ということになってしまうのでしょうが、しかし、
この箇所は私達に自己卑下を起こさせるために書かれたのではなく、そうではなく、
私達に模範や、方法を語るために記されている、そう思えるのです。
 

この箇所で学ぶべき教訓や教えとは何でしょうか?
考えてみましょう。

この箇所で学ぶべき教えとは?
私はこう思います。この箇所で、神は私達に、教会という一見ひよわな集まりのもっている、
恐るべき力、隠れた力について語っている、そう思えるのです。

神の家である教会と御使いの関係を語る以下の箇所を思い出してみましょう。
 
 

”創世記28:10 ヤコブはベエル・シェバを立って、カランへと旅立った。
11 ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。
12 そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。
13 そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。
14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。
15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」
16 ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言った。
17 彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」
18 翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。
19 そして、その場所の名をベテルと呼んだ。しかし、その町の名は、以前はルズであった。
20 それからヤコブは誓願を立てて言った。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路で私を守ってくださり、私に食べるパンと着る着物を賜わり、
21 私が無事に父の家に帰ることができ、主が私の神となってくださるので、
22 私が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私は必ずあなたにささげます。」”

この時、ヤコブが夢で見たように、神の家、教会とは、実は天使が上り下りする、
恐るべき場所なのです。
このことを知らなかった、ヤコブは、「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」といいました。彼はその場所が神の家であり、また
天の門とは知らなかったのです。

それを知らなかったヤコブはある意味、無知といえるかもしれません。
しかし、誰も彼を責めることはできません。何故なら、私達の多くは、本当の意味で、
神の家、教会が天の門であり、何とそこには天に通じる道があること、そこを通って天使が行き来することができるなんて本当の意味では信じていないからです。
 

道ばたにあるマンホールは下水道に通じる入り口ですが、教会には下水道どころか、
天に通じるマンホールがあり、実際に天使がその門を通って行き来する、そうこの箇所は語っているのです。
 

そしてこのヤコブの夢の箇所は単なる夢物語ではなく、現実のことがらであり、ペテロの時、
この教会の門は開き、がぜん天使が下ってきて、ことをなし、ペテロを牢から解放した、
そのように上記使徒の働きの箇所は読むべきなのです。この箇所は教会の知られざるパワー、力、
そして、その天へ通じる門、また実際に天使がやってくることに関して語り、説明する箇所なのです。

”12 こうとわかったので、ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ行った。そこには大ぜいの人が集まって、祈っていた。
13 彼が入口の戸をたたくと、ロダという女中が応対に出て来た。
14 ところが、ペテロの声だとわかると、喜びのあまり門を開けもしないで、奥へ駆け込み、ペテロが門の外に立っていることをみなに知らせた。
15 彼らは、「あなたは気が狂っているのだ。」と言ったが、彼女は本当だと言い張った。そこで彼らは、「それは彼の御使いだ。」と言っていた。
16 しかし、ペテロはたたき続けていた。彼らが門を開けると、そこにペテロがいたので、非常に驚いた。”

実際に教会に開けている天の門を通して御使いが下ってきたのですが、しかし、
教会の反応も今一つ信仰的ではありません。
祈りに答え天使が下って、ペテロを解放したのですが、そのペテロを見て、びっくりしてしまったわけですから。彼らは本当に祈りにこたえて、天の門が開け、実際に天使がそのように事をなすとまで、実は
信じていなかったのかもしれません。
しかし、何はともあれ、教会の祈りに答え、天の門は開け、御使いが下り、ペテロは解放されたのです。

ですからここを通して我々が学ぶべきことはこういうことでしょうか。
すなわち、それはこの時のペテロの教会だけでなく、私達の教会においてもやはり
門は天に向かって開いていること、また、我々の祈りに答えて、必要に応じて、
天使が下ってくる、そのことです。

”17 しかし彼は、手ぶりで彼らを静かにさせ、主がどのようにして牢から救い出してくださったかを、彼らに話して聞かせた。それから、「このことをヤコブと兄弟たちに知らせてください。」と言って、ほかの所へ出て行った。
18 さて、朝になると、ペテロはどうなったのかと、兵士たちの間に大騒ぎが起こった。
19 ヘロデは彼を捜したが見つけることができないので、番兵たちを取り調べ、彼らを処刑するように命じ、そして、ユダヤからカイザリヤに下って行って、そこに滞在した。
20 さて、ヘロデはツロとシドンの人々に対して強い敵意を抱いていた。そこで彼らはみなでそろって彼をたずね、王の侍従ブラストに取り入って和解を求めた。その地方は王の国から食糧を得ていたからである。
21 定められた日に、ヘロデは王服を着けて、王座に着き、彼らに向かって演説を始めた。
22 そこで民衆は、「神の声だ。人間の声ではない。」と叫び続けた。
23 するとたちまち、主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えた。
24 主のみことばは、ますます盛んになり、広まって行った。”

さらに御使いは働き、迫害者ヘロデは打たれて命を失いました。
何故ヘロデは打たれたのか?普通に考えるなら、
これも一連の話の一部ですから、教会の祈りに答えて、御使いが下ってきて、
ことをなしたと思うのが妥当でしょう。

ここで私達は何を見るのか?そう、
恐るべき教会のパワーをここで見るのです。牢獄の鉄の門を開き、迫害者を滅ぼす、
このパワーを我々はここで見るのです。まことにヤコブのいうように、神の家、教会とは「この場所は、なんとおそれおおいこと」でしょう。

まとめますが、私達は教会の力、神の家の力を知らなければなりません。
世の中の人は人間的な目、視点でしか、ものごとを見ていません。
牧師の学歴がどうだとか、献金額がどうだとか、政治的な影響力とか、などです。
それは一つの視点なのですが、神の視点はそれとは異なります。神の家、
教会とはヤコブが見たように、驚くべきところなのです。そして多くのクリスチャンの問題は、自分が教会に通いながら、なおかつ、そのことを知らない、神の目の前における、教会に関する視点を持っていないことです。

この例、ペテロの例は見やすい形、目に見える様な形で、御使いがペテロを助けています。
しかし、いつもいつも目に見える形とは限りません。むしろ、目に見えないケースが多いのではと想像できます。天使が働いていても実はきづかないケースが多いのでしょう。

教会が恐るべきところ、御使いが上り下りするところであることはペテロの時代も今も
変わらず、今でも御使いは祈りに答えて、上り下りしているのです。
教会の祈りに答え、あのわざ、このわざをなしているのですが、しかし、それは目に見えないので、誰もそれが、このことばの成就だとは知らない、それだけのことです。

しかし、どんな時でも主のことばが正しく、この場所は恐るべき場所である、それを知りましょう。
終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー -----------------------------19168764063306228981197639108 Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream