NO.706 その道を通らない(3)


”テキスト:1列王13:23 彼はパンを食べ、水を飲んで後、彼が連れ帰った預言者のために、ろばに鞍を置いた。
24 その人が出て行くと、獅子が道でその人に会い、その人を殺した。死体は道に投げ出され、ろばはそのそばに立っていた。獅子も死体のそばに立っていた。
25 そこを、人々が通りかかり、道に投げ出されている死体と、その死体のそばに立っている獅子を見た。彼らはあの年寄りの預言者の住んでいる町に行って、このことを話した。
26 その人を途中から連れ帰ったあの預言者は、それを聞いて言った。「それは、主のことばにそむいた神の人だ。主が彼に告げたことばどおりに、主が彼を獅子に渡し、獅子が彼を裂いて殺したのだ。」
27 そして息子たちに、「ろばに鞍を置いてくれ。」と言ったので、彼らは鞍を置いた。
28 彼は出かけて行って、道に投げ出されている死体と、その死体のそばに立っているろばと獅子とを見つけた。獅子はその死体を食べず、ろばを裂き殺してもいなかった。
29 そこで、預言者は、神の人の死体を取り上げ、それをろばに乗せてこの年寄りの預言者の町に持ち帰り、いたみ悲しんで、葬った。
30 彼がなきがらを自分の墓に納めると、みなはその人のために、「ああ、わが兄弟。」と言って、いたみ悲しんだ。
31 彼はその人を葬って後、息子たちに言った。「私が死んだら、あの神の人を葬った墓に私を葬り、あの人の骨のそばに私の骨を納めてくれ。
32 あの人が主の命令によって、ベテルにある祭壇と、サマリヤの町々にあるすべての高き所の宮とに向かって呼ばわったことばは、必ず成就するからだ。」
33 このことがあって後も、ヤロブアムは悪い道から立ち返ることもせず、引き続いて、一般の民の中から高き所の祭司たちを任命し、だれでも志願する者を任職して高き所の祭司にした。
34 このことによって、ヤロブアムの家が罪を犯すこととなり、ついには、地の面から根絶やしにされるようになった。”
 

本日は、「その道を通らない(3)」として、さらにこの件を見ていきたいと思います。
テキストに沿って見ます。
 

”23 彼はパンを食べ、水を飲んで後、彼が連れ帰った預言者のために、ろばに鞍を置いた。
24 その人が出て行くと、獅子が道でその人に会い、その人を殺した。死体は道に投げ出され、ろばはそのそばに立っていた。獅子も死体のそばに立っていた。”

ユダからの神の人は、主の教えに背き、その地、ベテルでパンを食べ、水を飲みました。
その結果、すぐに獅子に襲われ、命を失いました。
このことは何をさすのでしょうか?

これは、神の警告であり、カソリックのパン、教えを受け、また水、霊を受ける人は獅子に殺される、
すなわち、サタンにより、命を失うことをさすのです。
このユダからの神の人の例は生きたわかりやすい教訓であり、我々現在のプロテスタントは、ここから
生きた教訓を学ぶべきです。

それは、この教会、カソリックに惑わされて引き付けられるプロテスタントのクリスチャンは
いずれ、獅子、サタンにとって食われ、みごとに命を失うという教訓です。
マザーテレサや、ローマ法皇などに引かれ、この教会の門をたたくべきでないのです。
また、マリヤ像がうるわしく見えたり、アベマリヤの歌がすてきだからといって、
カソリック教会の門をくぐるべきではないのです。

”25 そこを、人々が通りかかり、道に投げ出されている死体と、その死体のそばに立っている獅子を見た。彼らはあの年寄りの預言者の住んでいる町に行って、このことを話した。
26 その人を途中から連れ帰ったあの預言者は、それを聞いて言った。「それは、主のことばにそむいた神の人だ。主が彼に告げたことばどおりに、主が彼を獅子に渡し、獅子が彼を裂いて殺したのだ。」”

ユダからの神の人が獅子に命を奪われたその理由は、彼が主のことばに背き、
ベテルのパンを食べ、水を飲んだからです。同じように、すべて、カソリックのパン、教えを受け、また、
その水すなわち霊を受ける人は神に背くものであり、警告とおり獅子、すなわち、サタンにより、命を失うことを知りましょう。
 

繰り返していうようですが、ここの箇所を通して神が明らかに語っている警告には耳を傾け、
間違っても、それを無視したり、背いたりすべきではありません。
このユダからの神の人の悲劇的な死を通して、我々に対して、明確な警告があるのです。

それは、繰り返しますが、たとえどのような方法で誘われても、また
御使いの不思議なできごとがあってもしかし、この地のパンと水、すなわちカソリックの教えと霊とを
受ける人は獅子に食われ、命を失うのです。

私は何人かのカソリックの人を知っていますが、誰も彼もみな、惑わされ、おかしな霊のとりことなり、
そう文字どおり、獅子、サタンに食われつつあるような人ばかりです。

神のことばはだてでも、また起きないことがらの警告でもありません。
そうではなく、逆にこれは、今私達のすぐそばにある危険、カソリックの教えや霊に関する警告である、このことを知りましょう。
 

”27 そして息子たちに、「ろばに鞍を置いてくれ。」と言ったので、彼らは鞍を置いた。
28 彼は出かけて行って、道に投げ出されている死体と、その死体のそばに立っているろばと獅子とを見つけた。獅子はその死体を食べず、ろばを裂き殺してもいなかった。
29 そこで、預言者は、神の人の死体を取り上げ、それをろばに乗せてこの年寄りの預言者の町に持ち帰り、いたみ悲しんで、葬った。
30 彼がなきがらを自分の墓に納めると、みなはその人のために、「ああ、わが兄弟。」と言って、いたみ悲しんだ。”

ユダからの神の人は命を失い、北イスラエルの人々はその死を「ああ、わが兄弟。」といって、悲しみました。そうです、北イスラエルと南のユダとは兄弟の間柄なのです。
同じように、カソリック、プロテスタントそれぞれは、兄弟姉妹なのです。
しかし、しかし、そうであってもこの地、カソリックの地のパン、教えも水、霊をも受けてはいけないと

明確に神は語られました。このことを重く受け止めましょう。
今のキリスト教会のトレンドは、カソリックとプロテスタントとの融和、合一、
壁を崩し、エキュメニカルを行うという方向です。
しかし、私達は主のみことばを行っていきましょう。
 

”31 彼はその人を葬って後、息子たちに言った。「私が死んだら、あの神の人を葬った墓に私を葬り、あの人の骨のそばに私の骨を納めてくれ。
32 あの人が主の命令によって、ベテルにある祭壇と、サマリヤの町々にあるすべての高き所の宮とに向かって呼ばわったことばは、必ず成就するからだ。」”

「あの人が主の命令によって、ベテルにある祭壇と、サマリヤの町々にあるすべての高き所の宮とに向かって呼ばわったことば」とは何かというと、これらの祭壇で、祭司自身がいけにえとなってしまうということ、人の骨が焼かれるということです。

不吉な預言です。
いつだか、注文の多い料理店という宮沢賢治の本を読んだことがあります。
2人の紳士が、すてきな山猫料理店に入ったは良いが、その料理店では、
豚を食べさせるのか、牛を食べさせるのかというとそうでなく、
何と山猫によって、客自身が食べられてしまうというお話でした。

この「ベテルにある祭壇と、サマリヤの町々にあるすべての高き所の宮」に関して、そこでは、
命を得る、あがないにより、命を長らえるどころか、その祭壇に近付き、奉仕することにより、
何と祭司自身が命を失う、その骨も焼かれてしまうという、全く正反対の結果が出る、
祭壇に関する預言なのです。

そして、それは、かつて旧約の日の現実ではありましたが、それにとどまらず、
今のカソリックで実現することがらなのです。
 

”33 このことがあって後も、ヤロブアムは悪い道から立ち返ることもせず、引き続いて、一般の民の中から高き所の祭司たちを任命し、だれでも志願する者を任職して高き所の祭司にした。
34 このことによって、ヤロブアムの家が罪を犯すこととなり、ついには、地の面から根絶やしにされるようになった。”
 

このような悲劇的な日をこのベテルの祭壇が迎えるその理由は、「一般の民の中から高き所の祭司たちを任命し、だれでも志願する者を任職して高き所の祭司にした」からであることが描かれています。

祭司は本来、レビ人、すなわち、主につく人々が任命されるべきだったのですが、
ヤロブアム、北イスラエルは、一般の民の中から、祭司を選んだのです。このことが非常に大きな罪となりました。

そして、それは今のカソリックの問題でもあると思えます。彼らは祭司を選ぶ基準を、
レビ人、すなわち主につく人に定めていません。逆に普通の人を祭司としています。そして、それゆえ、
カソリックの歩みは神の怒りを買うのです。

このことを覚えましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

−以上ー
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