NO.704その道を通らない


”テキスト:1列王13:1 ひとりの神の人が、主の命令によって、ユダからベテルにやって来た。ちょうどそのとき、ヤロブアムは香をたくために祭壇のそばに立っていた。
2 すると、この人は、主の命令によって祭壇に向かい、これに呼ばわって言った。「祭壇よ。祭壇よ。主はこう仰せられる。『見よ。ひとりの男の子がダビデの家に生まれる。その名はヨシヤ。彼は、おまえの上で香をたく高き所の祭司たちをいけにえとしておまえの上にささげ、人の骨がおまえの上で焼かれる。』」
3 その日、彼は次のように言って一つのしるしを与えた。「これが、主の告げられたしるしである。見よ。祭壇は裂け、その上の灰はこぼれ出る。」
4 ヤロブアム王は、ベテルの祭壇に向かって叫んでいる神の人のことばを聞いたとき、祭壇から手を伸ばして、「彼を捕えよ。」と言った。すると、彼に向けて伸ばした手はしなび、戻すことができなくなった。
5 神の人が主のことばによって与えたしるしのとおり、祭壇は裂け、灰は祭壇からこぼれ出た。
6 そこで、王はこの神の人に向かって言った。「どうか、あなたの神、主にお願いをして、私のために祈ってください。そうすれば、私の手はもとに戻るでしょう。」神の人が主に願ったので、王の手はもとに戻り、前と同じようになった。
7 王は神の人に言った。「私といっしょに家に来て、食事をして元気をつけてください。あなたに贈り物をしたい。」
8 すると、神の人は王に言った。「たとい、あなたの家の半分を私に下さっても、あなたといっしょにまいりません。また、この所ではパンを食べず、水も飲みません。
9 主の命令によって、『パンを食べてはならない。水も飲んではならない。また、もと来た道を通って帰ってはならない。』と命じられているからです。
10 こうして、彼はベテルに来たときの道は通らず、ほかの道を通って帰った。”
 

本日は「その道を通らない」として、
メッセージしたいと思います。
 

”1 ひとりの神の人が、主の命令によって、ユダからベテルにやって来た。ちょうどそのとき、ヤロブアムは香をたくために祭壇のそばに立っていた。”

ヤロブアムとは誰かというと、2つに分裂した神の民のうち、北イスラエルの
最初の王です。
北イスラエルは、私の理解によれば、新約のカソリックの予表です。

ですから、本日の箇所は、カソリックが神の前にどういう教会なのか、その神の前に
おける本質について書いた箇所なのです。

「ひとりの神の人が、主の命令によって、ユダからベテルにやって来た。」
 

ここでは、北イスラエルすなわち、カソリックのことと
ともに、ユダ、すなわち、プロテスタントからの神の人についても書かれています。
ですから、ここで扱かっている主題の一つは、プロテスタントは、カソリックをどう
みなすべきか、カソリックについてどういう態度で接すべきかという問題なのです。結論からいうなら、
ここでは、パンも食べるな、水も飲むな、またその道を通って帰るなというように、
カソリックの教え、霊を受けるべきでないことが語られているのです。

”2 すると、この人は、主の命令によって祭壇に向かい、これに呼ばわって言った。「祭壇よ。祭壇よ。主はこう仰せられる。『見よ。ひとりの男の子がダビデの家に生まれる。その名はヨシヤ。彼は、おまえの上で香をたく高き所の祭司たちをいけにえとしておまえの上にささげ、人の骨がおまえの上で焼かれる。』」”

さて、このユダからの神の人は、まだ国になってまもないイスラエルの国、
また新しくできた祭壇に関して、とんでもない不吉なことを預言しました。
すなわち、この祭壇で、祭司自身が焼かれること、人の骨がこの上で焼かれることを預言したのです。
牛でも羊でもなく、生きた人、また人の骨が焼かれることが預言されたのです。

当たり前の事ですが、どんな聖書のことばも意味があります。
この不吉な預言にも意味がありますので、このことを考えてみましょう。

これは、北イスラエルの最初の王、ヤロブアムの時のことですから、
いわば、これから始まる北イスラエルの長い王朝の本質を最初に語ったと理解できます。
たとえの理解としては、カソリックのその歴史の始めに、そのもっとも本質的な
ことに関して神は預言した、そうも理解できます。

そして、その本質とは何かというと、この祭壇で祭司が焼かれる、人の骨が焼かれる、という何とも気味の悪い、恐ろしい預言なのです。

人間的にはあまり楽しいことばではありませんが、他でもない、神からのことばですので、
私達は真面目にこのことを考えてみたいと思います。

普通、祭壇で焼かれるのは羊や牛です。それらが全焼のいえにえとして捧げられ、
その結果、我らの罪が許される、祭壇とは本来、そのように、民にとって、
祝福の場所なのです。これが基本、原則です。

しかし、このイスラエル、ベテルの祭壇では、あろうことか、祭司自身が焼かれる、
人の骨が焼かれるのです。
人の命をあがなったり、助けたり、命を与える祭壇ではなく、人の命を奪い、
仕える祭司の命を奪う祭壇、それが、北イスラエルの祭壇であることがわかるのです。
そして、それは、カソリックの祭壇、奉仕、勤めの本質について語るものなのです。

カソリックで祭司となること、神に仕えようとすること、それは
恐るべき結果をその祭司に与える、何と祭司自身が焼かれる、具体的には
おかしな霊で焼かれていく、そのことをこの箇所はたとえで語っているのです。

”3 その日、彼は次のように言って一つのしるしを与えた。「これが、主の告げられたしるしである。見よ。祭壇は裂け、その上の灰はこぼれ出る。」”
 

さて、ここでユダからの神の人は主のしるしとして、祭壇が裂けること、
灰がこぼれることを語りました。

このことの意味合いは何でしょうか。
祭壇が裂ければ、祭壇として用いることができません。また灰がこぼれれば、
あたりを散らかして、被害を起こします。
灰は火の燃えかすとして、火、霊に関する災いを述べると思われます。
ですから、旧約の神の民の一つ、北イスラエル、その神に仕える祭壇は
祝福どころか、被害や、災いとなってしまうことをここでは見るのです。
このことは、現在の新約の神の民、カソリックの礼拝、祭壇が祝福というより、
仕える人にとって、災いの場所となっていることを預言しています。
 

”4 ヤロブアム王は、ベテルの祭壇に向かって叫んでいる神の人のことばを聞いたとき、祭壇から手を伸ばして、「彼を捕えよ。」と言った。すると、彼に向けて伸ばした手はしなび、戻すことができなくなった。
5 神の人が主のことばによって与えたしるしのとおり、祭壇は裂け、灰は祭壇からこぼれ出た。
6 そこで、王はこの神の人に向かって言った。「どうか、あなたの神、主にお願いをして、私のために祈ってください。そうすれば、私の手はもとに戻るでしょう。」神の人が主に願ったので、王の手はもとに戻り、前と同じようになった。”

このユダからの神の人をとらえようと、ヤロブアムは手を延ばしましたが、その手はしなびてもとに
戻すことができなくなりました。神がこうされたからなのです。
ですから、神の前には、ここでいうユダからの神の人のことばが正しく、
この北イスラエルの祭壇が呪いと災いの下にあると語ることが神の前には正しいのです。
同じく、今のカソリックの信仰、祭壇、礼拝の方法は神の祝福の下でなく、呪いの下にあると
語ることこそ正しいのです。

”7 王は神の人に言った。「私といっしょに家に来て、食事をして元気をつけてください。あなたに贈り物をしたい。」
8 すると、神の人は王に言った。「たとい、あなたの家の半分を私に下さっても、あなたといっしょにまいりません。また、この所ではパンを食べず、水も飲みません。
9 主の命令によって、『パンを食べてはならない。水も飲んではならない。また、もと来た道を通って帰ってはならない。』と命じられているからです。
10 こうして、彼はベテルに来たときの道は通らず、ほかの道を通って帰った。”
 

このユダからの神の人は、神から、「ここでは、パンを食べてはならない。水も飲んではならない。」と
語られていました。このことの意味合いは何でしょう?
パンは、みことば、教理に関するたとえです。
ですから、神は明らかに北イスラエルの地のパン、今でいうなら、カソリックのパン、教え、
メッセージを食べる、受けることを禁じています。
ろくでもない教えなので、こんな教えを受けるなと語っているのです。

マリヤは無原罪だとか、マリヤはキリストと共同のあがない主だとか、はたまた、
地獄は存在しない、れん獄などの教えは、どれもこれも聖書と無縁の冒涜教理であり、
いわば毒入りのパンみたいなものです。毒パンを食べると御臨終になるように、
こんな教理を食べたり、受けたりしている人々はいずれ、永遠の命を失います。
だから、ここでのパンを食べないよう、ユダからの神の人に命じられているのです。
ユダは今のプロテスタントの予表であり、すなわち、プロテスタントは、カソリックの
パン、教えを受けてはいけないことが語られているのです。

「水を飲んではならない」
 

水は、霊的なことのたとえです。
ですから、ここでは、北イスラエルの水、霊を受けてはいけないことが、ユダからの神の人に
語られているのです。
新約的にいうなら、カソリックの霊を受けてはいけないことが、プロテスタントに
対して語られているのです。
でうから、血の涙を流すマリヤ像やら、ミステリー、不思議な現象に引かれてプロテスタントは、
カソリックに行くべきではありません。
この教会の霊に関して、神は明らかにその水を「飲むな」と命じているからです。

「もと来た道を通って帰ってはならない。」

このユダから北イスラエルへ道を通って来た神の人に対して、その道を通ってはいけないことが
いわれています。

このことの意味合いは?
それは、明らかにプロテスタントから、カソリックへ至る道にはみこころがなく、
それを通るべきでないとの意味合いです。

ですから、このおかしな教会に賛同し、エキュメニカルを標榜し、この教会を宣伝するような人々はみな、この教え、
「もと来た道を通って帰ってはならない。」との教えに反したことを語っていることを知りましょう。
マザーテレサがすばらしい、とかローマ法皇はすばらしい、とかいっている人々です。

この道、プロテスタントから、カソリックへ至る道を通ることは禁じられており、
死をもって罰せられる道であること、このことを知りましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
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