NO.703 アザゼル(2)

”テキスト:イザヤ53:1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。
2 彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。
10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。”

本日は、アザゼル(2)として、さらにこの件を見ていきたいと思います。
テキストに沿って見ます。

1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。
2 彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。”

主のすがたには、「私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない」ことが書かれています。これは、アザゼルの様な歩みです。

旧約聖書には、以下の様にアザゼルという特殊なやぎのささげものをすることが書かれています。

レビ16:21 アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。”

アザゼルは、スケープゴートとKJVには訳されています。
皆の罪を負って曠野に行くやぎのことです。

これは、まさにこのイザヤ書で預言されている主の歩みと一致します。
「私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない」時、
人間的には、良い評判も立たないでしょうし、見た目を気にする
人からは評価されないでしょう。
 
 
 

”3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。”
 

アザゼルとしての主の歩みは、さげすまれ、のけ者にされる歩みであることが書かれています。
外見もよくなく、その上、身分も大工の子ではあまり人から、
尊敬を一身に受けるということはなかったのでしょう。

私達も、もし主に従い、アザゼルの歩みに入るつもりなら、人からの外側に関する賞賛やら、
身分、役職による賞賛というものは、求めるべきでないのでしょう。

4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。”

主はその生きた歩みの中で、「私たちの病を負い、私たちの痛みをにな」いました。
まさにアザゼル、罪を負うやぎの歩みを行ったのです。

そのようなわけで、私達は主の歩み、主が負われた、重荷ということを聖書に沿って正しく知るべきです。
主が十字架で、命を失い、死なれたことは事実なのですが、しかし、それだけではないのです。
単に死ぬ時のみではなく、主は生きたその人生を、アザゼル、罪を負うやぎとして、他の人の
罪のゆえに苦しみの人生を歩まれたのです。

そして単にそれだけでなく、人から誤解さえされたのです。「だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。」と書かれているとおりです。

主の歩みとは生きながら、人の罪を負い、なおかつ人からは
誤解された歩みだったのです。
 

”5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。”
 

主は私達の罪のために十字架で刺し通されました。
その主へのこらしめやら、打ち傷により、私達は平安を受け、いやしを受けたのです。
本来私達が受くべきだった罰を主が代わりに受けたために私達はこの
人生を、平安の中で生きることができるのです。

私達のかつての罪やら、反抗は、私達の人生を最悪のものにするのにあまりあるものでした。
本来、私達はこの人生においても、自分の罪や重荷の報いを受けるもの、結果、暗い、重い、しかし
自業自得な人生を歩むべきだったのです。

しかし、主は生きながら、私達のかわりに打たれる人生、こらしめられる歩みを行い、
私達がこの地上で受けるべき罰やら、報いの身代わりとなられたのです。
その結果、我々はとがないものとして神に受け入れられ、咎をつぐなうことなく、
神に受け入れられているのです。これは、主の行いのゆえなのです。
 

”6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。”
 

私達は「羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った」ため、
その行いの当然の報いをこの地上においても受けるべきものでした。

しかし、私達の身代わりとなり、主が私達全ての咎を負われたのです。
神を知らず、この世に従い、神に逆らい、罪を犯して歩んできた全ての
報いを私達がこの地上で受けたとしても私達には何も弁解できないのですが、
しかし、主は私達の全ての罪の報い、咎をその身に負われたのです。
 

”7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。”
 

主はそのような咎を負う、アザエルとしての人生を歩み、しかもその最後には、
ほふり場にひかれていく羊のように、命を失ったのです。
しかも、「彼は苦しんだが、口を開かない」と書かれているように、
主は自分の弁解も弁護もせず、しかし、もくもくと人の罪を負われたのです。このような弁解しない
歩みに関して福音書では、以下の様に書かれています。

”マタイ27:11 さて、イエスは総督の前に立たれた。すると、総督はイエスに「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」と尋ねた。イエスは彼に「そのとおりです。」と言われた。
12 しかし、祭司長、長老たちから訴えがなされたときは、何もお答えにならなかった。
13 そのとき、ピラトはイエスに言った。「あんなにいろいろとあなたに不利な証言をしているのに、聞こえないのですか。」
14 それでも、イエスは、どんな訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。”

主は自分を訴える人に何らの弁解をもしなかったのです。

このことは私達、主の歩みの後に従おうと志す者たちに示唆を与えます。
私達は、この世で、また主に従う中で、誤解や中傷や、
偏見を受けるでしょうが、しかし、弁解すべきではないのです。

”8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。”
 

主は民の罪のためにそれをアザエルとして、負うために、
苦しみを受けたのですが、しかし、それを正しく理解する人はまわりにいませんでした。
「彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。」とはまさにこのことを現します。
 

今でこそ、私達は聖書を通して、主の歩みの意味合いを理解しますが、しかし、
主が肉体を持って歩んでおられた時、その当時の人は誰も主の苦しみの意味合いを理解していなかったのです。
 

このことは大いに私達に語ることがあります。聞く耳を持つ人は聞いて下さい。
もし、間違えでなければ私にはこう思えます。それは、
主に従うしもべも同じような歩み、人に正しいことを行いながら、なおかつ、アザゼルのように、人からのけものにされたり、
誤解されたりする歩み、それに入るように語られているように思えるのです。
ヘブル書にもこう書かれています。
 
 

”ヘブル13:11 動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。
12 ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。
13 ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。
14 私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。”

テキストに 戻ります。
 
 
 

”10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。”
 

しかし、主はアザゼルとしての歩みの中で多くの人を勝ち取っていったのです。
私達も同じ様な歩みをすべきなのでしょう。

非難、中傷の中でももくもくと弁解もせず、主のみこころを行う歩み、その
中で多くの人が勝ち取られて行くのです。

終末における主のみこころを行いましょう。

−以上ー
 
 
 
 
 
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