NO.702 アザゼル


テキスト:”レビ16:
6 アロンは自分のための罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。
7 二頭のやぎを取り、それを主の前、会見の天幕の入口の所に立たせる。
8 アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためとする。
9 アロンは、主のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。
10 アザゼルのためのくじが当たったやぎは、主の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするために、アザゼルとして荒野に放つためである。
 

20 彼は聖所と会見の天幕と祭壇との贖いをし終え、先の生きているやぎをささげる。
21 アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。
22 そのやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。彼はそのやぎを荒野に放つ。

 

本日はアザゼルとしてこの箇所を見ていきたいと思います。
テキストに沿って見ます。

”6 アロンは自分のための罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。
7 二頭のやぎを取り、それを主の前、会見の天幕の入口の所に立たせる。
8 アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためとする。”
 

ここで2頭のやぎについて書かれています。そのうちの一頭は、アザゼルであることが書かれています。
アザゼルとは何かというと、スケープゴートとKJV訳では訳されています。
スケープゴートとは、何か問題や事件があった時、皆からの
非難を自分の身に一身に浴びる人のことです。一人だけが悪者にされ、罪をかぶってしまう、結果他の人には、
非難が及ばなくなる、それをスケープゴートというのです。


9 アロンは、主のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。”
 

2頭のうち一頭は、罪のためのいけにえとされます。これは、
勿論我々のあがないとして命をささげたイエスキリストの型です。
 

”10 アザゼルのためのくじが当たったやぎは、主の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするために、アザゼルとして荒野に放つためである。”
 

さて、ここでアザゼルについて書かれています。
アザゼル、スケーブゴートの特徴は、それが殺されるのではない、逆に生きたままで、
あがないをするということです。
繰り返しますが、生きている、そしてなおかつあがないをなすやぎ、それがアザゼルなのです。

そして、「アザゼルとして荒野に放つためである。」と書いてあります。アザゼルは、
罪をかぶってみなの間から追い出され追放されるのです。

このやぎは何を意味するものでしょうか?何を予表するものでしょうか?
これは生きたまま、スケープゴートとして、みなの間から、追い出され、
皆の罪を負った方、イエスキリストを明らかに予表するものです。
主は以下の様に私達のの罪を負って追い出されたことが聖書に書かれています。
 

”イザヤ53:1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。
2 彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。
10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。”

ここでは、明らかにアザゼル、スケープゴートとなり、生きながら人の罪を負った主のことが描かれています。

ですから、私達は主イエスの歩みに関してもう一つのことを知らなければなりません。
それは単にその死の時、我々の罪をあがない、そして、犠牲となったというだけでなく、
しかし、主のその生きた歩みそのものが、スケープゴートの歩みであり、その
人生そのものが、人の罪を負い、人の間から追い出され、追放される歩みだったという、そのことを知るべきなのです。

テキストに戻ります。
 


20 彼は聖所と会見の天幕と祭壇との贖いをし終え、先の生きているやぎをささげる。
21 アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。”

ここでは、生きているやぎの上に自分の罪を告白することが書かれています。
また、「これらをそのやぎの頭の上に置」くことが描かれています。
ですから、明らかにこのやぎは我々の罪を負われた、しかも生きたままで負われた方、
イエスの型なのです。

”22 そのやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。彼はそのやぎを荒野に放つ。”

やぎは咎を負って、不毛の地、荒野へ行きます。このことが語るものは何でしょう?
 

やぎは賑やかな都に行くのでも、また晴れがましい、表彰台に乗るわけでもなく
ステージで脚光を浴びるわけではありません。逆に不毛の地、人もいない土地、また、
荒野、何も生えていない地に行くのです。

このことは明らかに人からのけものにされ、誤解され、
反対され、ののしられた歩みを行った主の生涯を、象徴しています。

主の歩みは曠野の歩みであり、また人の罪を負ったスケープゴートの歩みだったのです。
さて、主の歩みはこのようだったのですが、それでは弟子はどう歩むべきなのでしょうか?

あなた労する人、私エンジョイする人ということで、気楽なクリスチャン人生を過ごすべきなのでしょうか?
私にはそう思えないのです。
ペテロ、ヨハネを始めとした弟子達は、みな主と同じように、アザゼル、スケープゴートの歩みをしています。最後には殉教してしまったペテロ、また、そうでなくともみことばのために
パトモスへ流されたヨハネ、とみな生きながら、人々の咎を負い、荒野に追いやられた歩みをしています。また、
パウロは彼のアザゼルのような歩みを以下の様に語っています。

”2コリ11:23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。
24 ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、
25 むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
26 幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、
27 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。”

自分の同胞から捨てられ、我々の罪を負い、むちうたれ、十字架につけられた主の様にパウロも
同胞から捨てられ、むち打たれました。
 

これらのことがらは私達に示唆を与えないでしょうか。

私達も主に従うなら、アザゼルの様に歩みに入るのかもしれません。

同胞であるクリスチャンに捨てられたり、また
むち打たれたり、非難されたり..。

そうなるのかもしれませんが、しかし、そうであってもこの方に従っていきたいものです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
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