NO.699安息日(2)

テキスト:ヘブル4:
1 こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。
2 福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。
3 信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。
4 というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。
5 そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と言われたのです。
6 こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから、
7 神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。
8 もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。
9 したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。
10 神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。
11 ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。

(KJV)

 1*  Let us therefore fear, lest, a promise being left us of entering into his rest, any of you should seem to come short of it.
 2* For unto us was the gospel preached, as well as unto them: but the word preached did not profit them, not being mixed with faith in them that heard it.
 3* For we which have believed do enter into rest, as he said, As I have sworn in my wrath, if they shall enter into my rest: although the works were finished from the foundation of the world.
 4* For he spake in a certain place of the seventh day on this wise, And God did rest the seventh day from all his works.
 5* And in this place again, If they shall enter into my rest.
 6* Seeing therefore it remaineth that some must enter therein, and they to whom it was first preached entered not in because of unbelief:
 7* Again, he limiteth a certain day, saying in David, To day, after so long a time; as it is said, To day if ye will hear his voice, harden not your hearts.
 8* For if Jesus had given them rest, then would he not afterward have spoken of another day.
 9* There remaineth therefore a rest to the people of God.
 10* For he that is entered into his rest, he also hath ceased from his own works, as God did from his.
 11*  Let us labour therefore to enter into that rest, lest any man fall after the same example of unbelief.

本日は安息日(2)として、この件をさらに見ていきたいと思います。
テキストに沿って見て行きます。
 

”1 こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。”
 

神の安息に入ることが強調されています。「神の安息にはいるための約束はまだ残っている」ことが
語られています。神の約束の地、安息の地に入ることは、旧約の時代ですでに終わったことではなく、
今の時代の我々に関係があることを語っているのです。
この約束は今でも新約において残っており、というより、今こそ、神の
安息に入る事が大事な時のです。
 

「万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。」

万が一という時、やはり残念ながら、この安息に入れない人もいるのです。
 

”2 福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。”

ある人は安息のことを聞きます。すなわち、神が7日目に休んだように我々も休むこと、
安息日には何のわざをもしないこと、すなわち、神が一切をして下さるので、
我々が行いをすすめるべきでない、全ての行い、わざを休むことを聞くのです。
同じことを全ての人が聞くのですが、しかし、聞いている人々の間に区分ができます。
 

「ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。」
 

全ての人はキリストが我々の義となるという福音、みことばを聞きました。しかし、
ある人にとっては、そのことばが益になり、その身に実現します。しかし、
ある人々の上には、実現されず、益にもなりません。
何故か?
 

「みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」

それは、みことばを聞いても信仰を持ったか持たないかの違いなのです。
さて、それでは、その信仰を持つ、持たないとは具体的に安息とどういう関係があるのか?
それはこういうことではないかと私は思います。たとえば、義に関してです。
ある人はキリストが我々の義となるということばを聞いても、それに安息せず、
自分の行いに走ります。

カソリックがそうであるように懺悔や、行いに走ります。また、ホーリネス系がそうであるように、
人前で罪を告白しないと、許されないということで、そのことを何とか実践しようと四苦八苦します。
これは何かというと行いであり、安息日の教え、安息日には、何のわざをもしてはならない、何の行いをもしてはならないとの教えに背いているのです。

さて、もう一種類の人々がいます。それらの自分の行いに頼らず、進まず、しかし、安息日の
原則、何のわざをもしない、行わないという原則を守っている人々です。
そして、ただ、神がキリストが自分のうちになして下さるわざに期待するのです。
彼らは神の約束の成就を見ます。

”3 信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。”

信じた私達は安息に入る、と記されたように、安息すること、何の行いをも
私達の方で行わないことが、すなわち、安息なのです。
何故なら、「みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。」とあるように、
神の働き、わざはすでになされているからです。


4 というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。”
 

今の時は聖書的に何日目なのかということを考えましょう。
今は何日目か?創造以来1日目か?2日目か?このことに関して、
以下の様に聖書は書きます。

”創世記2:1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。
2 それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。
3 神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。”
 

今はこの創造の記述から考えると何と7日目、安息の日なのです。
そして、天地の創造のわざがすでに終わった日なのです。
さて、この天地ということばにはたとえが含まれています。
天地は、アブラハムの子孫が住むところとして、教会のたとえです。
そして、天地創造のわざがすでに終わったということは、
もっと詳しく考えると何を意味しているのでしょうか?

いわんとしていることは、あらゆる教会における奉仕、行い、わざはすでに
完了している、そう語っているのです。

しかし、ここに現実とのギャップがあります。
天地の創造のわざが終わった、もう教会建造のわざが終わった、
全ての奉仕も、行いも終わったといっても、我々の目には、まだ教会は完成していないし、まだまだ、
奉仕は完成していないように見えるのです。
一体このギャップをどう考えればよいのか?

答えはこんなことになるでしょうか。我々の認識と神のことばが異なるなら、神のことばが正しいのである、
我々の信仰を神のことばにあわせなければならない、そんなことでしょうか。

ヘブル書では、信仰に関して暗示的にこう定義しています。
 

ヘブル人への手紙 11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。”

見えないものを確信すること、それが信仰なのです。神が天地の創造のわざをすでに
終えたといっても私達には何も見えず、行いに走りがちなのですが、それを信じるのが信仰なのです。

いやしのわざも、そして、私達のあの奉仕も、この働きも神の前にはすでに完成しています。
問題は我々がそれを信じることです。

”5 そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と言われたのです。”

わざ、行いのことと関連して安息のことが書かれています。
 

"
”6 こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順(KJV:不信仰)のゆえにはいれなかったのですから、
7 神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。"
 

ここでは、安息に入るべきなのに入れない人がいること、そしてその理由は不信仰だからということが書かれています。

私達は安息日を守るべきであり、安息に入るべきなのですが、その際、もっとも大きな問題は不信仰であることを知るべきです。
何故、安息日には何の仕事もするな、すなわち、何のわざをも神の前にすべきでないといわれているのに、
行いに走ってしまうのか?
その理由は不信仰のためなのです。

不信仰にならず、何のわざをもしないとはどういうことでしょう?
具体的な例をあげましょう。
ある人がある深刻な病にかかったとします。
それで、そのために祈ります。
断食をして長い間祈るのですが、なんとしてもいやされません。
そんな時、彼は神のかたりかけを受け、安息を持つこと、全ての手のわざを
やめ、神に頼ることを教えられたのです。
彼がその病のため、自分のわざの全てをやめ、しかし、神に頼っていった、
その時、その病はいやされてきました。

このようにして、私達は自分の手のわざを休み、主に頼り、安息をもつべきなのです。
不信仰のゆえに、安息し切れず、神を信じることのできない状態にとどまるべきではありません。
 

”8 もしヨシュア(イエスKJV)が彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。
9 したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。”
 

ここでは、安息日の休みがまだ残っていることが書かれています。安息日の約束は
あるのに、実際にその休みに入っていない神の民がいるのです。

”10 神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。”
 

神の安息に入った人、これがクリスチャンの理想なのですが、その特徴は、
自分のわざを終え、休むことです。
何故なら、主に働いてもらうためには、自分のわざを終えるしかないからです。
そして、行う人、自分のわざを終えない人、それが不信の人なのです。

私達が自分の手を降ろさず、休まないということは、事を行う神を信頼しないことであり、
それは、不信なのです。
 

”11 ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順(不信)の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。”

かつての日、落伍して、しまった神の民の特徴は、不信でした。
安息すべき日、安息すべきこと、何のわざをもなすべきでない時に行いをすること、
それが、不信なのです。

私達は、神に信頼し、安息することを学ばなければなりません。
終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
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