No. 696祭壇の火は燃えしむべし、消えしむべからず(3)


”テキスト:レビ6:21 それを油でよくこねて平なべの上で作らなければならない。それを、粉々にした焼いた穀物のささげ物として持ってはいらなければならない。主へのなだめのかおりとしてささげなければならない。
22 さらに、彼の子らのうち、油そそがれて、彼の跡を継ぐ祭司は、このことをしなければならない。永遠の定めによって、それを主のために完全に焼いて煙にしなければならない。
23 このように、祭司の穀物のささげ物はすべて全焼のささげ物としなければならない。これを食べてはならない。」
24 ついで主はモーセに告げて仰せられた。
25 「アロンとその子らに告げて言え。罪のためのいけにえに関するおしえは次のとおりである。罪のためのいけにえは、全焼のいけにえがほふられる場所、主の前でほふらなければならない。これは最も聖なるものである。
26 罪のためのいけにえをささげる祭司はそれを食べなければならない。それは、聖なる所、会見の天幕の庭で食べなければならない。
27 その肉に触れるものはみな、聖なるものとなる。また、その血が少しでも着物の上にはねかかったときには、あなたは、そのはねかかったものを聖なる所で洗わなければならない。
28 さらにそれを煮た土の器はこわされなければならない。もしそれが青銅の器で煮られたのであれば、その器はすりみがかれ、水で洗われなければならない。
29 祭司たちのうち、男子はみな、これを食べることができる。これは最も聖なるものである。
30 しかし、聖所での贖いをするためにその血が会見の天幕に持って行かれた罪のためのいけにえは、食べてはならない。これは火で焼かれなければならない。”
 

本日は、「祭壇の火は燃えしむべし、消えしむべからず(3)
」として、
この件をさらに見ていきたいと思います。

テキストに沿って見ていきます。
 
 

”21 それを油でよくこねて平なべの上で作らなければならない。それを、粉々にした焼いた穀物のささげ物として持ってはいらなければならない。主へのなだめのかおりとしてささげなければならない。”
 

穀物のささげものは、油で作ることが書かれています。
ですから、穀物、小麦、パン、すなわちみことばに関するメッセージは、
聖霊により、その油とともに作られるべきものであり、祈りは欠かせないのです。
メッセージのもっとも大事な備えは祈りであり、聖霊の働きであり、
注解書をたくさん読むことではありません。

「主へのなだめのかおりとしてささげなければならない。」

この穀物のささげものが主へのなだめのかおりとなることが書かれています。
ですから、穀物、小麦、パン、すなわちメッセージは人というより、
神にささげられるものである、この基本をよくよく知るべきです。
メッセージはまず、神にささげられるものであり、神に喜んでいただかなければなりません。

マリヤはキリストと共同のあがない主だとか、法皇は無原罪だとか、
艱難前に携挙があるなどとのヨタ話が神にはたして喜ばれるものかどうか、
メッセンジャーはよくよく考えて説教すべきなのです。


22 さらに、彼の子らのうち、油そそがれて、彼の跡を継ぐ祭司は、このことをしなければならない。永遠の定めによって、それを主のために完全に焼いて煙にしなければならない。
23 このように、祭司の穀物のささげ物はすべて全焼のささげ物としなければならない。これを食べてはならない。」”
 

この穀物のささげものは、完全に焼かれること、全焼のいけにえとしてささげられるべきことが書かれています。
ですから、メッセージの始めから終わり迄、火で焼かれ、聖霊の火で焼かれたものを主の前に
ささげるべきなのです。その一部であっても、人からのもの、聖霊以外のものが加わるべきではありません。

聖霊の火がどうしたら燃えるか、与えられるかというと、それは祈り以外ありえません。
ですから、結論として、メッセージの準備に必要なことは、祈り、祈り、祈りなのです。
 

「これを食べてはならない。」
 

祭司はこれを食べてはならないことが書かれています。
何故か?

何故なら、穀物のささげものは第一優先として神にささげられるものだからです。
祭司が食べ、自分が納得し、また、自分を高めたり、評判をよくするため、プライドを満足するものではないのです。
具体的にいうと、自分が何をした、どんな学歴がある、こんなこともできて、あれも知っている、
そんなメッセンジャーの自己満足の説教、それをさして、「(祭司は)これを食べてはならない。」
と命じられているのです。
 

”24 ついで主はモーセに告げて仰せられた。
25 「アロンとその子らに告げて言え。罪のためのいけにえに関するおしえは次のとおりである。罪のためのいけにえは、全焼のいけにえがほふられる場所、主の前でほふらなければならない。これは最も聖なるものである。
26 罪のためのいけにえをささげる祭司はそれを食べなければならない。それは、聖なる所、会見の天幕の庭で食べなければならない。”

罪のためのいけにえに関しては、「 罪のためのいけにえをささげる祭司はそれを食べなければならない」と書かれています。
 

ですから、このいけにえは基本的には人のためのものであることがわかります。
罪を取り除く小羊としての主が身をささげたのは、我々のため、
我々の罪のためなのです。
そして、そのいけにえのゆえに、我々のように罪深いものも、主の祭司として
仕えることができるようになったのです。

”27 その肉に触れるものはみな、聖なるものとなる。また、その血が少しでも着物の上にはねかかったときには、あなたは、そのはねかかったものを聖なる所で洗わなければならない。
28 さらにそれを煮た土の器はこわされなければならない。もしそれが青銅の器で煮られたのであれば、その器はすりみがかれ、水で洗われなければならない。”
 

その肉に触れるものはみな、聖なるものとなることが書かれています。
その羊の肉、あがないのゆえに我々は聖なるものとなります。
 

”29 祭司たちのうち、男子はみな、これを食べることができる。これは最も聖なるものである。
30 しかし、聖所での贖いをするためにその血が会見の天幕に持って行かれた罪のためのいけにえは、食べてはならない。これは火で焼かれなければならない。”

祭司はこの肉を食べ、あがないを受けるべきなのですが、
しかし、「会見の天幕に持って行かれた罪のためのいけにえは、食べてはならない。」ことが
書かれています。
この意味合いは何でしょう?
私の思うには、会見の天幕、すなわち、神の前にもっていかれた
罪のいけにえは、まず神のためのものであり、人のためのものではないからです。
それは、罪のいけにえのもう一つの面、すなわち、神が罪のあがないを受け入れるという
面がかかれているのです。

罪を許し、その罪の罰を免れさせる、させないを決定するのは、
神御自身なので、その神が納得することが大事なのです。
そして、小羊なる、御子きりストの血は神を納得させるので、我々は晴れて罰を免れることになるのでう。
感謝し、そして、恐れをもって、このことを受けましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
 
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