使徒6: 1そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。
2 そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。”
本日は、神のことばを投げ捨てて食卓に仕えるという題でメッセージをします。
テキストに沿ってみていきます。
”1そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。”
この日、食卓のことに関して苦情が出ました。
この苦情に対応する必要があります。
食卓は、パンや水を飲むところ、みことばを受け、聖霊の働きのある、
礼拝のたとえです。
”
2 そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。”
ここで、12使徒達は、「神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのは」よくないと
語っています。
このことばはかたりかけのあることばです。
何故なら、多くの礼拝、食卓においては、肝心の神のことばが後回しにされ、
捨てられた状態で、礼拝をもたれることがあるからです。
教会の礼拝は、神のことばを拝聴するため、みことばをいただくため:
そんな建て前がありはするものの、
多くの食卓、礼拝においては、実質神のことばは、後回しにされ、
捨てられています。
逆に牧師は、礼拝(サービス)を行うサービスマンみたいになって、
食卓、すなわち、会衆へのサービスにいそしんでいます。
そんなことを書くといいがかりのように聞こえますがそうでもありません。
会衆が終末の時代に艱難に会うのがいやだといえば、会衆、食卓に合わせて、
もっと味の良い料理を一般受けするパンをとばかり、クリスチャンは艱難に会わないという
ヨタ教理、艱難前、2段階携挙説などをもってきて、食卓の用に供しています。
結果、会衆一同は、こいつはうまいパンだと大喜びです。
さらに死後裁きに会わない、地獄はない、なんて教えもカソリックでは花盛りです。
また、プロテスタントでは、イスカリオテのユダも救われるとする、セカンドチャンスも
大人気です。
これらは堅いところのないおかゆみたいな教えであり、会衆の食卓には
人気です。
しかし、聖書で明確に記載されている地獄に関して、それはないと述べることは、
会衆の食卓を優先し、神のことばを捨て去り、無視する歩みであることを知りましょう。
終末における主のみこころを行いましょう。
ー以上ー