NO. 691 祭壇の火は燃えしむべし、消えしむべからず(2)

 

 

テキスト:”レビ6:

11 祭司はその装束を脱ぎ、別の装束を着けて、脂肪の灰を宿営の外のきよい所に持ち出しなさい。
12 祭壇の火はそのまま燃え続けさせ、それを消してはならない。かえって、祭司は朝ごとに、その上にたきぎをくべ、その上に全焼のいけにえを整え、和解のいけにえの脂肪をその上で焼いて煙にしなさい。
13 火は絶えず祭壇の上で燃え続けさせなければならない。消してはならない。
14 穀物のささげ物のおしえは次のとおりである。アロンの子らは祭壇の前でそれを主の前にささげなさい。
15 すなわち、その中から穀物のささげ物のひとつかみの小麦粉と油を取り出し、穀物のささげ物の上の乳香全部といっしょに、この記念の部分を、主へのなだめのかおりとして祭壇の上で焼いて煙にしなさい。
16 その残った分は、アロンとその子らが食べることができる。それを聖なる所で種を入れないパンにして食べなければならない。それを会見の天幕の庭で食べなければならない。
17 これにパン種を入れて焼いてはならない。わたしは、それを火によるささげ物のうちから、彼らの分け前として与えた。それは罪のためのいけにえや罪過のためのいけにえと同じように、最も聖なるものである。
18 アロンの子らのうち、男子だけがそれを食べることができる。これは、主への火によるささげ物のうちから、あなたがたが代々受け取る永遠の分け前である。それに触れるものはみな、聖なるものとなる。」
19 ついで主はモーセに告げて仰せられた。
20 「アロンとその子らが、その油そそがれる日に、主にささげるささげ物は次のとおりである。小麦粉、十分の一エパを常供の穀物のささげ物とする。半分は朝、他の半分は夕方の分である。”
 

本日は、「祭壇の火は燃えしむべし、消えしむべからず(2)」として、この件をさらに
見ていきたいと思います。

テキストに沿っって見ていきます。
 

”11 祭司はその装束を脱ぎ、別の装束を着けて、脂肪の灰を宿営の外のきよい所に持ち出しなさい。
12 祭壇の火はそのまま燃え続けさせ、それを消してはならない。かえって、祭司は朝ごとに、その上にたきぎをくべ、その上に全焼のいけにえを整え、和解のいけにえの脂肪をその上で焼いて煙にしなさい。”

祭壇の火は、燃えつづけさせること、それを消してはならないことが
書かれています。

この意味あいは何でしょう?
肉を焼きつくす祭壇の火は、そのまま聖霊の火をさすたとえです。
そして、聖霊の働きは消える、火が消えるということがあり得るのです。
日曜日はよく祈っておおいに聖霊に触れていたが、月曜になると全く祈らず、火曜、水曜と
そのまま続き、土曜日あたりには全く枯渇し聖霊の火も消え、生肉復活というか、
この世とあまりかわらないクリスチャン生活になったなんてことはよくあるのです。
しかし、それは、祭壇の火を消すことであり、このことは、奨励されていません。

「かえって、祭司は朝ごとに、その上にたきぎをくべ」

火はほおっておいて燃えるというものではありません。ほおっておくといずれは消えるものです。
火を燃やし、更に燃やすためには、たきぎをくべる努力が必要です。
この朝ごとにたきぎをくべるとは具体的に何をさすか?
これこそ、麻ごとに我々がささげる祈りをさすのです。

たきぎをくべなければ、火を燃え続けさせることができないように、
麻祈らない人は聖霊が働くことを期待できません。
 

”13 火は絶えず祭壇の上で燃え続けさせなければならない。消してはならない。”

繰り返しますが、ささげものをささげる祭壇の上では、火が絶えず、燃え続けさせることが要求されています。同じく奉仕を我々が神の前にささげようとするなら、火を燃やすこと、聖霊の火を燃やすことが必須なのであることを知りましょう。

祈りは奉仕において必須であり、聖霊が働くことは必須です。それがないと、
奉仕が逆に災いとなる可能性があるのです。
 

”14 穀物のささげ物のおしえは次のとおりである。アロンの子らは祭壇の前でそれを主の前にささげなさい。

 

穀物のささげものの意味するところは何でしょうか?
穀物、麦はパンに通じ、いのちのパン、神のみことばや、メッセージに通じます。

ですから、穀物のささげものとは、具体的には教会でささげられるメッセージの事をたとえているのです。この時、メッセージに関して知るべきこと、留意すべきことは、それは、神の前に
ささげものとしてささげられるということです。
穀物のささげものは人の前にささげられるものではないのです。

ですから、私達がメッセンジャーであるなら、気をつけるべきことは、そのメッセージを
人向けではなく、神に対してささげる、そのことです。

人向けのメッセージにはどのようなものがあるでしょうか?
たとえば、クリスチャンは艱難に会わないという、人々に人気抜群の
艱難前携挙説、二段階携挙説があります。
それから、地獄がないとか、セカンドチャンス、煉獄なんかの話も人気があります。
しかし、それを神が喜ばれるかどうかは別です。というより、
聖書にもないこんな話を神は喜ばれないでしょう。
ですから、これらのメッセージ、穀物は人にささげられたものであり、
神に捧げられたとはいいがたいシロものなのです。
 

”15 すなわち、その中から穀物のささげ物のひとつかみの小麦粉と油を取り出し、穀物のささげ物の上の乳香全部といっしょに、この記念の部分を、主へのなだめのかおりとして祭壇の上で焼いて煙にしなさい。”

穀物をささげる時、穀物だけではなく、油、乳香もささげることが書かれています。
いわんとしていることは、パン、みことば、メッセージを語る時、それのみではなく、油、聖霊の働きとまた、乳香、祈りをもささげることが語られているのです。

ですから、メッセージをする時、大事なことは、あちこち、わけのわからない
注解書をひねくりまわすことなどではなく、そうではなく、祈りをささげること、また
それにより、聖霊の働きがあること、このことが大事であると
語られているのです。
メッセージにおいて、祈りは必須、聖霊の働きは必須なのです。
 


16 その残った分は、アロンとその子らが食べることができる。それを聖なる所で種を入れないパンにして食べなければならない。それを会見の天幕の庭で食べなければならない。”

そのパンは種を入れないパンであることが書かれています。パン種は罪の象徴であり、
罪のないメッセ−ジをしろとの意味合いです。
メッセージをするメッセンジャーは祈りの中で主に触れ、霊、肉のあらゆる罪から
解放されることを求めるべきです。
 

「 その残った分は、アロンとその子らが食べることができる。」

穀物のささげものののこりについてここで書かれています。
メッセージをする人にはわかることなのですが、礼拝なりのメッセ−ジを
作成すると、いつも必ずのように、「のこり」が出るものです。
メッセージの時間、30ー40分位の時間で話せることには限りがあり、
話せず、誰にも公表せず、しかし、そのつど、教えられた残り物のパンがあるものなのです。
それに関して、「 その残った分は、アロンとその子らが食べることができる。」と
書かれています。

この残りのパンは、奉仕者、メッセンジャーの役得みたいなものです。
 

”17 これにパン種を入れて焼いてはならない。わたしは、それを火によるささげ物のうちから、彼らの分け前として与えた。それは罪のためのいけにえや罪過のためのいけにえと同じように、最も聖なるものである。
18 アロンの子らのうち、男子だけがそれを食べることができる。これは、主への火によるささげ物のうちから、あなたがたが代々受け取る永遠の分け前である。それに触れるものはみな、聖なるものとなる。」”
 
 
 

この穀物のささげもの、パン、メッセージに関して「それに触れるものはみな、聖なるものとなる。」
と書かれています。

神からのメッセージこそ、人を聖なるものとすることを知りましょう。
ですから、穀物のささげものをする祭司、すなわち新約のメッセンジャーの役割は大事なのです。
 

”19 ついで主はモーセに告げて仰せられた。
20 「アロンとその子らが、その油そそがれる日に、主にささげるささげ物は次のとおりである。小麦粉、十分の一エパを常供の穀物のささげ物とする。半分は朝、他の半分は夕方の分である。”
 

「小麦粉、十分の一エパを常供の穀物のささげ物」としてささげることが書かれています。

この穀物のささげものは、常供のささげものです。ですから、
メッセージはまず、神の前に常にささげられるべきものなのです。
人もきくかもしれませんが、まず神にささげられるべきものなのです。

メッセージは神の前にささげられる、このことを知りましょう。
終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
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