No689足なえ(2)

”テキスト:使徒3:11 この人が、ペテロとヨハネにつきまとっている間に、非常に驚いた人々がみないっせいに、ソロモンの廊という回廊にいる彼らのところに、やって来た。
12 ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。
13 アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの先祖の神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。
14 そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、
15 いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。
16 そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。
17 ですから、兄弟たち。私は知っています。あなたがたは、自分たちの指導者たちと同様に、無知のためにあのような行ないをしたのです。
18 しかし、神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました。
19 そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。
20 それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。”
 

本日は、足なえ(2)として、この件をさらに見ていきたいと思います。
 

”11 この人が、ペテロとヨハネにつきまとっている間に、非常に驚いた人々がみないっせいに、ソロモンの廊という回廊にいる彼らのところに、やって来た。”

足なえであり、人に物乞いをするしか能のない人が自分の足で歩み、宮の中で、喜び、
踊る、これは大きな恵みです。このことはたとえであり、この足なえは、信仰の歩みのない
私達のたとえです。
この男がイエスの名のみにより、いやされたように、私達のいやし、信仰の歩みの劇的な変化も、
イエスの名により、与えられることを知りましょう。
この名を求め、この名で祈るものはいやされるのです。

「ソロモンの廊という回廊にいる彼らのところに、やって来た。」

この箇所には度々ソロモンの廊のことが出てきます。このことも偶然とは思われません。
ソロモンは以前見たように聖霊のたとえです。
ですから、足なえのいやしは、ソロモンの廊と無関係ではなく、また信仰の弱い我々の足が強められることは、大いに聖霊に関係するのです。
具体的には、大いに聖霊に触れ、イエスの名によって、祈る人はいやされるのです。
 

”12 ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。”
 

ここでもペテロはこの人をいやしたのは、自分達の信仰ではない、そうではなく、イエスの名なのだということを語っています。

ですから、この章全体のメッセージ、強調点は、いやし、足なえのいやしは、ただイエスの名によって与えられる、そのことです。今でいうなら、私達信仰の弱いものの歩みが強められるのは、ただ
イエスの名によってのみ可能なのです。

ですから、もし私達がペテロの信仰やら、現代のペテロ、ローマ法皇の信仰によって、
立とうとしているなら、それは間違いです。その結論はあの愚かな女、 マザーテレサ
の様な惑わしに入ります。彼女は法皇がそういうからといって、多元主義すなわち、
仏教でもヒンズー教でも救われるとの愚かな結論に至りました。

結果、天国の門を逃す愚か者となりました。
彼女自身、自分と神との間はあまりに遠いと嘆いていましたが、
今、彼女は天ではなく、別のところにいるのです。
イエスの名を捨て、人の名を求める者の愚かな結末を彼女を通して知るべきです。
 

”13 アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの先祖の神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。”
 

ここで神のえらびと人の選びとが異なることが描かれています。
神はそのしもべイエスを選び、栄光を与えたのに、逆に人である律法学者、パリサイ人達は、
この方を拒んだのです。

同じことが終末にも起きるでしょう。真に頼るべき方、イエスを捨て、
人の器を崇拝すること、このことは起きるでしょう。


14 そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、
15 いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。”
 

ここで、きよい正しい方を拒むことと、人殺しの男、バラバを釈放することが
セットで語られています。

これらは対になっているのです。これは終末に起きることの型です。
終末の日にもきよい正しい方の霊が頃sれ、追い出され、
逆に、人殺しの霊が解放されるのです。


16 そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。”
 

ここでもイエスの御名がこの人を強くしたことが語られています。
ですから、私達がイエスの御名に頼り、また、ただ頼り、祈り、求めることがいかに
大事かわかります。

私達はこの方に求め、この方の名により、求め続けなければならないのです。
そうでないなら、一生ものごい生活、信仰の偉人からのおこぼれだけでようやく生きていく、
足なえクリスチャンとして生きていくしかないのです。

たびたびいうようですが、このイエスの名が繰り返し繰り返し強調されることには、意味があるのです。
それは、イエス以外の名、他の人の名前に頼ったり、それを求める人が多いことを示唆しているのです。
しかし、その名ではいやされません。弟子の筆頭である、ペテロでさえ、
金銀は私にはない、と断言している以上、人の信仰に頼る道は神のみこころではありません。
 
 

「イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。」

私達の誰もが完全なからだ、完全な信仰生活、しっかりした聖徒の歩みを望むものですが、
しかし、それは、イエスから来る、イエスからの信仰により、我々は完全な正しい
歩みに入ることがここで書かれています。

イエスに求めるものは正しい歩みに入ります。しかし、
人の名、ウエスレーだの、ルターだの、ウオッチマンニーだの、マザーテレサ、ローマ法皇だの
口を開けばそんな人の名前ばっかり語る人は結局は、ものごいどまりでとまってしまうことを
知りましょう。完全な歩みには結局入れないのです。


17 ですから、兄弟たち。私は知っています。あなたがたは、自分たちの指導者たちと同様に、無知のためにあのような行ないをしたのです。”

この時ペテロは、旧約の神の民、また指導者、祭司長達を無知であると述べました。
このことは本当です。宗教の専門家であり、聖書の専門家であるはずの彼らはみごとに
聖書に対して無知であり、聖書がまさにかねてから預言していた真のメシヤ、キリストを
悟ることができませんでした。

さて、同じく終末の日、神の民であるクリスチャンや、その指導者である、牧師、教師、
監督、長老達の特徴は、無知であることを知りましょう。

聖書の暗号は、もうすでに、黙示録の封印が開かれる時代に派行っていることを述べます。
しかし、彼らは既にその時であることを知りません。

また彼らはダニエル書、黙示録がかねてから預言している終末の獣の国とは、
実はアメリカであることを知りません。

また彼らは終末においてもっとも大事なこと、終末の時とは、背教の神の民を裁く時であることを知りません。彼らは無知なのです。

”18 しかし、神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました。
19 そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。
20 それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。”
 
 

ここでは、回復の時について述べています。
あしなえがいやされることは、回復に通じます。回復のためには、
「罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返」ることが大事です。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
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