NO. 679羊のために命を捨てる

”テキスト:ヨハネ10:11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
12 牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。
13 それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。
14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。
15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。”

本日は羊のために命を捨てるという題でメッセージしたいと思います。

テキストに沿って見ていきます。
 


” わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。”

ここでは、主御自身は自分を牧者であると述べています。
主が御自分を色々な形で表現しています。ユダヤ人の「王」であると語る時、
それは、王としてのキリストについて語っているし、また、ほふられた小羊と語った時は、
罪のためにあがないをなされる方として、語っているわけです。さらに世の光として語る時、
暗い真理のない明るさのない世において、真の光としてのキリストについて語っているのです。
さて、ここでは、良い「牧者」と語られています。それで、ここでは、羊を牧し、牧会する
方としてのキリストについて語っていることがわかるのです。

さて、ここで牧者について語る時、「良い」牧者という表現をしていることを理解しましょう。
牧者は今でいう牧師、牧会者について述べています。
わざわざ「良い」牧者という表現をする以上、悪い牧者もいるのではないかと想像されます。

それで、私達はこう理解します。主が我々を牧師、牧会者として認めていただけたのなら、それは
感謝ですが、しかし、それなら、是非「良い」牧師になるべきである、それを理解するのです。
 

「良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」
 

良い牧師とそうでない牧師との違いは羊のために命をすてるかどうかという
ことです。

主は真の牧者なので、命を捨て、十字架で命を捨てた、これは確かなのですが、
しかし、それは牧者をめざす他の人の模範であり、良い牧師をめざす人は羊のため、
命を捨てることを念頭におくべきなのです。

それで、牧会とは命がけである、それがわかるのです。
ところで、何故牧師は命がけだったり、命を捨てなければならないのでしょうか。
教会とはそんな物騒なところなのか?刀や銃をもった人でもやってくるのか?
 
 
 

”12 牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。”

さて、ここで狼の話が出てきます。それで、牧師が命を失う、敵と戦うという時、それは、
狼と対峙するから、この敵と戦うからであることがわかります。
 

羊を奪う狼とは、要するにクリスチャンを惑わし、攻撃し、偽りに渡すサタンなのでしょう。
それで、この箇所を見る限り、牧会の任にあたる人々には、以下の
2種類の人がいることがわかります。
1. 真の牧者として牧会する人
2. ただの雇い人として、牧会をする人

そんな馬鹿な、牧師ともなれば、みな、一生懸命やっているのだ、という意見もあるかもしれませんが、
そう聖書に書いてある以上、やはり、真の牧会をする人、また、ただの雇い人に過ぎない人と、
2種類の人がいるのです。

その違いはどこかというと、
1. 真の牧者は羊を襲う狼と戦い、場合によっては命をすてる
2. ただの雇い人は狼が来ると自分の命を大事にして逃げる

上記の様な区分があると思うのです。
もちろん、牧師として奉仕している人にきいても誰一人として、
私は狼が来たら逃げ出すという人はいないのですが、しかし、聖書がそういう以上、
やはり、狼が来たら逃げ出すような雇い人牧師はいるのです。

それが誰かなどと個人を特定するのが、この文章の主旨ではありません。
しかし、何がその雇い人牧師なのかを見たいと思います。主旨は我々がただの雇い人として、
非難されないためです。

羊を襲うもの、命を奪うものは、狼ですが、それは、
どの羊に対してもやって来ます。そして、我々が多少なりとも真の牧者である主とともに牧会の働きに
携わる時、必ず対峙しなければならないのは、この狼との戦いなのです。

狼はどのようにしてやって来るのか?
以下のことばが参考になるでしょうか。
 
 

”マタイ8:16 夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて
来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。
17 これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」

この日、イエスの時代にイスラエルの人々、神の民の中で、多くの悪霊につかれた人、
また病の人がおりました。
それらを主は対応し、霊を追い出し、いやしたのです。
悪霊は狼であり、羊である神の民を苦しめていたのですが、
しかし、主は真の羊飼いとして、これらの狼と対峙し、羊の命を救ったのです。

さて、良い牧者は羊のために命を捨てるということばですが、
そのように狼と対峙する時、一つはっきりしていることがあります。
それは、狼と戦う時、必ず、牧者は、多少なりとも傷を負うということです。

相手はどうもうな狼なのですから、そう簡単に羊から離れよう、攻撃をやめようと
しません。それで、牧者が戦う時、必ず、狼との肉弾戦、激烈な戦いが起きてくるのです。

上記ことばに注目してください。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」

わずらい、病は悪霊から来るものですが、それを対応しようとする時、
必ず、その狼の鉾先は戦ってくる牧者に向かってくるのです。

今の我々の時代に関して具体的にいうなら、
たとえば、ある霊の攻撃にあっている人が教会にいるとします。
そして、我々がその人のいやしのためにとりなしたり、
対応すると必ず、悪い霊の攻撃を受けます。それは、
直接的に自分の体が痛くなったり、頭痛がしたりという方法もあるかもしれませんが、それだけでなく、
私達の感情、思索、霊への攻撃が来るのです。

あまりにそのようなことが続くと、もうあの人には会いたくない、あの人は悪い霊を
持っているからと思いますが、さあ、それが、真の牧者として、
羊のために命を捨てるか否かの選択なのです。

それらの攻撃にもめげず、その人の建て上げのため、対応していくか、
はたまた、もううんざりしてその人に会わないようにするか、その違いが真の牧者と
ただの雇い人との違いなのです。

霊の攻撃にあう羊を助けるということは、わかりやすくいうと、あのポパイのようなものです。
「どうもうな獣のような男、ブルートに襲われている可憐な女性、オリーブを助けるポパイ」のようなものです。
可憐な女性を助ければ、感謝されて感激ですが、しかし、それではすみません。
向かってくる獣男、ブルートの攻撃は我々、ポパイに向きを変えます。
それをどうするか?それが問題です。我々が立ち向かうなら、必ず殴り合いになります。そして、我々が、獣男をたたきのめさなければ、
勝利はないのです。

だから、牧者となるつもりがあるなら、狼との肉弾戦は、避けられないのです。
 

”13 それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。”

誰も雇い人だなどと呼ばれたくて、牧会をしている牧師はいないのですが、
問題は呼び名というより、実態です。
真の牧者とただの雇い人との差は狼が来たとき、狼に立ち向かうかどうかです。
羊を襲う狼が来たとき、すたこら逃げて行くのが雇い人であり、逆に、狼との
殴り合いになっても引かずに、盾として立ち続けるのが真の牧者なのです。
間違えてはいけません。

明らかに牧師職は体力勝負であり、用心棒みたいな仕事、それが、
牧者の仕事なのです。
 

”14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。”

牧師の一つの大事なことがらは、羊の事を知っていることです。
 

”15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。”
 

牧者が命を捨てるという時、それは、直接的には狼との戦いで。命を失うことをいうのです。
主はまさにそのような歩みをしました。羊を攻撃する狼である、サタンとの戦いに出ていき、
その戦いの中で、自分の命を捨てて、死の力を持つものを滅ぼしたのです。

ですから、私達がもし、真の牧者の道を歩むなら、主と同じような生き方をしなければならないことがわかるのです。
 

具体的には羊を攻撃する狼との戦いを避けないこと、必要があれば、断食も祈りも辞さず、
敵と戦っていく、それが、主にならう牧者の道なのです。
 

終末における主のみこころを行っていきましょう。

ー以上ー
 
 
 
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