NO. 677結婚について(4)


”テキスト:1コリント7:
31 世の富を用いる者は用いすぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。
32 あなたがたが思い煩わないことを私は望んでいます。独身の男は、どうしたら主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります。
33 しかし、結婚した男は、どうしたら妻に喜ばれるかと世のことに心を配り、
34 心が分かれるのです。独身の女や処女は、身もたましいも聖くなるため、主のことに心を配りますが、結婚した女は、どうしたら夫に喜ばれるかと、世のことに心を配ります。
35 ですが、私がこう言っているのは、あなたがた自身の益のためであって、あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろあなたがたが秩序ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるためなのです。
36 もし、処女である自分の娘の婚期も過ぎようとしていて、そのままでは、娘に対しての扱い方が正しくないと思い、またやむをえないことがあるならば、その人は、その心のままにしなさい。罪を犯すわけではありません。彼らに結婚させなさい。
37 しかし、もし心のうちに堅く決意しており、ほかに強いられる事情もなく、また自分の思うとおりに行なうことのできる人が、処女である自分の娘をそのままにしておくのなら、そのことはりっぱです。
38 ですから、処女である自分の娘を結婚させる人は良いことをしているのであり、また結婚させない人は、もっと良いことをしているのです。
39 妻は夫が生きている間は夫に縛られています。しかし、もし夫が死んだなら、自分の願う人と結婚する自由があります。ただ主にあってのみ、そうなのです。
40 私の意見では、もしそのままにしていられたら、そのほうがもっと幸いです。私も、神の御霊をいただいていると思います。”

本日は、結婚について(4)としてさらにこの件を見ていきましょう。


31 世の富を用いる者は用いすぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。

ここは、kJVでは世の富というより、世を用いると書かれています。世を用いることとは
どういうことでしょうか?

この世のトレンドにのり、トレンドを追いかけることでしょうか。
最新の映画情報、ファッション、芸能ニュース、政治、社会、経済のトレンドに
通じているということでしょうか。
しかし、そんなことばかりに時間を費やしていたら、聖書を読む時間も祈る時間もままならないと
思えるのですがどうでしょうか。

真に主に仕えるつもりなら、この世のあらゆることがら、娯楽を享受し、なおかつ、
..なんていうことは始めからありえません。
 

”32 あなたがたが思い煩わないことを私は望んでいます。独身の男は、どうしたら主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります。
33 しかし、結婚した男は、どうしたら妻に喜ばれるかと世のことに心を配り、
34 心が分かれるのです。独身の女や処女は、身もたましいも聖くなるため、主のことに心を配りますが、結婚した女は、どうしたら夫に喜ばれるかと、世のことに心を配ります。”
 

独身の時代に比べると、結婚をすると明らかに世につきます。私も結婚しているので、
わかります。主の事よりも伴侶のこと、家族のことにさく時間が多くなるのです。

”35 ですが、私がこう言っているのは、あなたがた自身の益のためであって、あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろあなたがたが秩序ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるためなのです。”

パウロは結婚についていろいろとこの章で書いていますが、しかし、彼の主旨は自分の
手紙で人々を束縛しようとすることではない、むしろ、各自が「秩序ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるため」であると書いています。

ですから、メインポイント、結婚に関して知らなければならない、もっとも大事なことは、
私達クリスチャンがひたすら主に奉仕できることなのです。このことを正しく知らなければなりません。

私達が独身なら、相手を選ぶ基準はその人と結婚して果たして、ひたすら主に奉仕できるかどうかが、
判断の基準であるべきです。いけめんか、リッチか、ということを考慮するなとはいいませんが、
二の次であるべきです。

もうすでに結婚したとしても、相手とその結婚生活を続けるかどうかの基準は、相手が主に奉仕することを許してくれるかどうかが、
判断の基準であるべきです。

だめだったら、いくら相手が金持ちでも相手が去るにまかせてよいでしょう。

繰り返しますが、私達は、理解のない未信者の人と結婚して、一生主に仕えることも集会に行くこともままならない生活を過ごすために主に召されたのではありません。

”36 もし、処女である自分の娘の婚期も過ぎようとしていて、そのままでは、娘に対しての扱い方が正しくないと思い、またやむをえないことがあるならば、その人は、その心のままにしなさい。罪を犯すわけではありません。彼らに結婚させなさい。
37 しかし、もし心のうちに堅く決意しており、ほかに強いられる事情もなく、また自分の思うとおりに行なうことのできる人が、処女である自分の娘をそのままにしておくのなら、そのことはりっぱです。
38 ですから、処女である自分の娘を結婚させる人は良いことをしているのであり、また結婚させない人は、もっと良いことをしているのです。”

この箇所は新改訳では、自分の娘の結婚に関して書かれているように見えますが、
KJVでは、男性自身が、結婚すべきか、独身(童貞)でいくかという問題を扱っているように
読めます。

今では、あまりいわれないことですが、クリスチャン男女にとっては、必ずしも、結婚を
することが良いわけではなく、独身でいけたら、その方が主に仕えるにはベターなのだという、
聖書のいう基本的なスタンスは我々は一応は理解しておくべきです。

もちろん、結婚せざるを得ない、既に結婚しているというそれぞれの
事情はあるのですが、上記が基本です。

それを既に結婚している身に置き換えるなら、いまさら独身には戻れないにせよ、
しかし、妻のあるものは妻のないようにという原則を守ること、すなわち、結婚生活に全ての時間もエネルギーも費やさず、逆にその中でも
主に仕えることに心をむけることが大事なのだと理解できます。

”39 妻は夫が生きている間は夫に縛られています。しかし、もし夫が死んだなら、自分の願う人と結婚する自由があります。ただ主にあってのみ、そうなのです。(口語:それは主にある者とに限る。)
40 私の意見では、もしそのままにしていられたら、そのほうがもっと幸いです。私も、神の御霊をいただいていると思います。”

ここでもパウロは、やもめになった女性に関して、「もしそのままにしていられたら、そのほうがもっと幸いです」
と述べます。すなわち、わざわざ結婚生活に入らないで、独身にとどまれるなら、それが幸いであると述べているのです。

パウロの結婚に関する考えは独自と思えるかも知れませんが、しかし、聖書には結婚に関して、他でもない、
彼のことばが残っているということは、実は主御自身の思いが、パウロのことばに代表されると
理解できます。

よく読むと、パウロの結婚に関する意見はどこまでもそのクリスチャンが主に仕えることができるかどうかが、判断の基準、中心になっていることがわかります。

彼のいうには、独身でこころおきなく、主に仕えられるなら、それがベスト。
やむをえず、結婚するにしても妻のあるものは、妻のないもののように、すなわち、
伴侶や家庭に巻き込まれて、主に仕えることから外れないようにと語っています。
相手が未信者であっても原則は同じであり、我々クリスチャンが主に仕えるというその
原則を貫いて、結果、相手が去っていくなら、それは去るにまかせよ、
そういっていると、理解できます。

結婚は往々にして人を拘束するものですが、しかし、我々クリスチャンが、結婚により、人の奴隷となったり、
世につくものとなることを彼は勧めてはいない、それを覚えましょう。
そして、それは単にパウロのいっていることというより、主御自身が望んでいることなのです。

決して惑わされたり、誤解してはいけません。
 

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
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