NO. 676結婚について(3)


”テキスト:1コリント7:
21 奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、むしろ自由になりなさい。
22 奴隷も、主にあって召された者は、主に属する自由人であり、同じように、自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。
23 あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません。
24 兄弟たち。おのおの召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。
25 処女のことについて、私は主の命令を受けてはいませんが、主のあわれみによって信頼できる者として、意見を述べます。
26 現在の危急のときには、男はそのままの状態にとどまるのがよいと思います。
27 あなたが妻に結ばれているなら、解かれたいと考えてはいけません。妻に結ばれていないのなら、妻を得たいと思ってはいけません。
28 しかし、たといあなたが結婚したからといって、罪を犯すのではありません。たとい処女が結婚したからといって、罪を犯すのではありません。ただ、それらの人々は、その身に苦難を招くでしょう。私はあなたがたを、そのようなめに会わせたくないのです。
29 兄弟たちよ。私は次のことを言いたいのです。時は縮まっています。今からは、妻のある者は、妻のない者のようにしていなさい。
30 泣く者は泣かない者のように、喜ぶ者は喜ばない者のように、買う者は所有しない者のようにしていなさい。”
 

本日は、結婚について(3)
として、この件をさらに見ていきたいと思います。
 
 

”21 奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、むしろ自由になりなさい。
22 奴隷も、主にあって召された者は、主に属する自由人であり、同じように、自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。”
 

私達は原則、主に召された時の状態で、主に仕えるべきです。


23 あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません。”

さて、ここで結婚に関する章の中に人間の奴隷となってはいけないことが書かれています。
第一義的にはこの箇所は、かつての奴隷制度に関して語られています。
奴隷制度とは、無関係な今の時代の我々には関係なさそうに思えます。そうなら、
しかし、これが、結婚に関する章であることを思い起こすと語りかけのあることばです。

何故なら、結婚生活は往々にして、人を「人間の奴隷」とさせやすいからです。
要求の強い妻と結婚した夫は妻の奴隷となりやすく、同じく妻も夫の奴隷となりやすいのです。

そして、相手が未信者なら、この世にずっとひっぱられる可能性もあるのです。

しかし、我々は主の血により、代価を払って買われ、あがなわれたことを思い起こしましょう。
人間の奴隷となってはいけないのです。逆にたとえ、結婚したとしても主の奴隷、しもべとしての
位置に留まり続けるべきなのです。
 

"
24 兄弟たち。おのおの召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。
(KJV:召された場所にとどまりなさい。)"

ここでも結婚に関連して召された場所にそのまま留まることが勧められています。
逆に結婚を機会に、本来の神からの召しを失ってしまう、多くの人がいることが想像できるのです。
その場合、本来祝福であるべきであった、結婚がその人にとり、かせとなり、つまずきとなることになります。

しかし、みことばは明らかに下記の様に述べています。

”ルカ14:
26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。”

結婚した妻でさえ、憎まなければ弟子の道は歩めないのです。

”25 処女のことについて、私は主の命令を受けてはいませんが、主のあわれみによって信頼できる者として、意見を述べます。
26 現在の危急のときには、男はそのままの状態にとどまるのがよいと思います。”
 

現在の危急の時、すなわち、世の終わりにいる人々にとって、大事なことは、
そのままにとどまることです。
 

”27 あなたが妻に結ばれているなら、解かれたいと考えてはいけません。妻に結ばれていないのなら、妻を得たいと思ってはいけません。
28 しかし、たといあなたが結婚したからといって、罪を犯すのではありません。たとい処女が結婚したからといって、罪を犯すのではありません。ただ、それらの人々は、その身に苦難を招くでしょう。私はあなたがたを、そのようなめに会わせたくないのです。”

結婚をすることは罪ではないが、しかし、終末の日の特別な状況においては、「それらの人々は、その身に苦難を招くでしょう」とパウロはいいます。
何故そういうのか?

それは、今迄の記述の流れから考えるなら、明らかに結婚することは、
世につくことに通じるからです。
ですから、私達は、結婚に関してこのことを知るべきなのです。
それは、この世に近付くことなのです。
ですから、すでに結婚している私達は、強いて意識しないなら、結婚している以上、
世につきやすい、このことを知るべきです。

”29 兄弟たちよ。私は次のことを言いたいのです。時は縮まっています。今からは、妻のある者は、妻のない者のようにしていなさい。”
 

妻のあるものは、妻のないもののようにとはどういう意味なのでしょう?
いわんとしていることは、たとえ結婚していてもあたかも結婚していないかのように、
独身者の様に歩む、主に仕えることが大事ということなのでしょう。
 
 

”30 泣く者は泣かない者のように、喜ぶ者は喜ばない者のように、買う者は所有しない者のようにしていなさい。”

「 泣く者は泣かない者のように、喜ぶ者は喜ばない者のように」の意味合いはくわしくはわかりませんが、察するところ、この世の過ぎゆくことにあまり感情を一喜一憂させるな、ということでしょうか。

「買う者は所有しない者のようにしていなさい。」

買うことは所有することであり、車を持てば、ドライブに行くでしょうし、薄型テレビを買えば、
それを毎日見るでしょう。買うことはこの世のことに時を使うことに通じます。
でもそんなことに全ての時間を使っては、主に仕えるどころの話ではありません。
だから、買う者は所有しない者のようにしていなさい。すなわち、ものにとらわれるな、と語られているのです。
 

結婚に関してこれらの節を見てきましたが、ここでもパウロの主張は一貫しており、
結婚に関してもっとも考慮すべきは、クリスチャンが自分の本来の召しを失わないこと、
主に仕える歩みからそれないこと、そう語っていることを知りましょう。
終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
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