NO. 674結婚について


”テキスト:1コリント7:
1 さて、あなたがたの手紙に書いてあったことについてですが、男が女に触れないのは良いことです。
2 しかし、不品行を避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。
3 夫は自分の妻に対して義務を果たし、同様に妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。
4 妻は自分のからだに関する権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同様に夫も自分のからだについての権利を持ってはおらず、それは妻のものです。
5 互いの権利を奪い取ってはいけません。ただし、祈りに専心するために、合意の上でしばらく離れていて、また再びいっしょになるというのならかまいません。 あなたがたが自制力を欠くとき、サタンの誘惑にかからないためです。
6 以上、私の言うところは、容認であって、命令ではありません。
7 私の願うところは、すべての人が私のようであることです。しかし、ひとりひとり神から与えられたそれぞれの賜物を持っているので、人それぞれに行き方があります。
8 次に、結婚していない男とやもめの女に言いますが、私のようにしていられるなら、それがよいのです。
9 しかし、もし自制することができなければ、結婚しなさい。情の燃えるよりは、結婚するほうがよいからです。”
 

本日は結婚についてという題でメッセージをします。
テキストに沿って見ます。

”1 さて、あなたがたの手紙に書いてあったことについてですが、男が女に触れないのは良いことです。”
 

クリスチャンが結婚生活を考える上で、まず気にすべきことは何でしょうか?
結論を先にいってしまえば、パウロはこの章の中で、以下の様に述べています。
 

35節「私がこう言っているのは、あなたがた自身の益のためであって、あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろあなたがたが秩序ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるためなのです。」
 

自分がひたすら主に仕える、ただしく主に仕える家庭を持つ、そういう相手と結婚する、それが第一優先であり、もっとも
考慮すべきことと述べているのです。
ですから、私達がクリスチャンの結婚について考えるなら、このことをもっとも
考慮すべきことと思います。
それ以外の事、たとえば相手の収入、みばえ、いけめん、ハンサム、ジャニーズ系、背の高さ、ステータス、他人へのみえ、結婚式でみなにうらやましがられること、美人、松田聖子に似ているとか、
料理の腕などを第一優先にし、それに気をとられると失敗するかもしれません。
 

”男が女に触れないのは良いことです。”
 

男が女に触れない、すなわち、恋人やら、奥様のことなど考えずに主に仕えていけるなら、
それがベストであると男性に向けて書かれています。

女性だったら、男のことなど考えず主に仕えていけるなら、それがベストなのです。

このことは本当だろうなともう既に結婚して子供もいる私は思います。
なんといっても独身で、奥様のことも子供のことも考えず、時間をさかず、主に仕えられたら、それが
ベストなのです。もっともその人がそうできればなのですが。

"2 しかし、不品行を避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。
3 夫は自分の妻に対して義務を果たし、同様に妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。
4 妻は自分のからだに関する権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同様に夫も自分のからだについての権利を持ってはおらず、それは妻のものです。"
 

かといって、独身で、しかも不品行やら、わけのわからない男女関係に入るくらいなら、
結婚をするようにとパウロは勧めます。
 

”5 互いの権利を奪い取ってはいけません。ただし、祈りに専心するために、合意の上でしばらく離れていて、また再びいっしょになるというのならかまいません。 あなたがたが自制力を欠くとき、サタンの誘惑にかからないためです。”

結婚したら、原則離れたり、別居すべきでないが、しかし、祈りに専心するためなら、
許されるとパウロは書きます。

ですから、パウロの結婚に関する視点はまず、クリスチャンが主にこころおきなく、
仕える、それを優先すべきということです。そういう意味ではパウロの視点では
結婚も一つの手段にすぎません。我々クリスチャンは、やみくもに何が何でも
結婚し、それを我慢して続けろと勧められているのではなく、主に仕えること、祈りに
専心する環境をもつこと、それを優先するように語られている、そう私には読めます。
 


6 以上、私の言うところは、容認であって、命令ではありません。”

容認であって、命令ではないとはどういう意味か?
いわんとしていることは、結婚していいかと問われれば、まあ、結婚をしてもよいのではないか、と
答えるが、積極的に結婚しろと、命令する気にはなれない、そうパウロはいっているのです。
何故か?
それは、パウロがあとでいっているように、また、結婚すれば自分でも痛感するように、結婚すると
いうことは、この世にだいぶ近い位置に自分を置くことだからです。

独身なら、単純、率直にどこでもいつでも主に仕え、時間を惜しみなく、主のために
使えるのですが、結婚すれば、妻やら、夫やら、子供やらに割く時間があり、
そうもいかないのです。

パウロが結婚に関して語る時、第一優先はまず、主に仕えられるかどうかという
視点に全く固定していることを覚えましょう。

ですから、人がもし、独身なら、結婚する時、このことを優先するべきです。
その相手と結婚してそもそも今迄のように、主に仕えていけるのかどうか。
 

そうすれば、おのずから、選択ははっきりとしてくるでしょう。
いくら、いけめんで、さわやか系で、収入がよくても、相手がキリストを信じていないのなら、
結婚後、自由に主に仕えることなど難しいことがわかるでしょう。

婚約やら、結婚式は、ほんわかしていてもいずれ、自分はその相手と何十年も過ごす、
いえ一生、主に仕えられない生活をしなければならないかもしれないことは、
前もって考慮すべきなのです。

私の偏見でしょうか。
何故だか、教会には、結婚する時、そもそもクリスチャン男性と結婚しない女性が多すぎるような気が私にはします。
始めから間違えていたら、後で修正するのは、大変だということを知るべきと思います。
 

”7 私の願うところは、すべての人が私のようであることです。しかし、ひとりひとり神から与えられたそれぞれの賜物を持っているので、人それぞれに行き方があります。”

パウロは独身だったのでしょうが、彼はその自分になぞらえて、「私の願うところは、すべての人が私のようであることです。」と語っていることを覚えましょう。
ですから、主に仕えるのに、もっとも適した生き方は独身で、結婚せず、
仕える方法です。
この原則は覚えておきましょう。

たとえ、私達がすでに結婚したものであってもしかし、その理想型を知っておけば、
他の形を考える時にも参考になります。
主に仕えるにもっとも適した形は独身の形であり、結婚したとしてもこの形に準ずるのが良いのです。
 

”8 次に、結婚していない男とやもめの女に言いますが、私のようにしていられるなら、それがよいのです。
9 しかし、もし自制することができなければ、結婚しなさい。情の燃えるよりは、結婚するほうがよいからです。”
 

ここでもパウロは、結婚に関連して再度、パウロのように、
独身で主に仕えられればそれが一番であると述べます。
ですから、結婚を考える時、主に仕えられるか否かをもっとも重要視すべきなのです。
私達が、結婚のゆえに世にとらわれ、主に仕えられない、それはあるべき聖徒の
姿ではない、それを覚えましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー

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