NO. 673弟子の歩み


”テキスト:ルカ1425 さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らの方に向いて言われた。
26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。
27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。
28 塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。
29 基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、
30 『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった。』と言うでしょう。
31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。
32 もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。
33 そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。
34 ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。
35 土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。聞く耳のある人は聞きなさい。」

本日は弟子の歩みという題でメッセージをしたいと思います。
テキストに沿って見ます。

25 さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らの方に向いて言われた。

この日、大勢の群集がイエスといっしょに歩いていました。
一緒に歩くとは語りかけのある表現です。霊的にいうなら、イエスと同じ信仰、
同じ歩みを志し、その歩みをしていたということでしょうか。
このことは尊くみこころがあります。

しかし、足りないことが一つあります。それは、彼らが群集であり、
砂の様な歩みをしている人々だということです。


26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。”

さて、その群集に対して、ここでは、弟子となることに関する主からのチャレンジがあるのです。

その弟子となることに関連して、キリストのもとで、「父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は」弟子となれないことがいわれています。

父母を憎むとは、おだやかではありませんが、何をいっているのでしょうか?
憎むということばの反対語は、「愛する」です。ですから、いわんとしていることは、
キリストへの愛より、父母への愛がまさるなら、
それでは弟子とはなれないといっているのです。

例をいいます。父母が、教会へ行くな、キリストを信じるなと
いったら、父母への愛のゆえに、教会へも行かず、洗礼も受けないのか?
そんな風に父母を優先するなら、弟子としてはとても歩めないことがわかります。

また、「妻」を憎まないものは主の弟子となれないといわれています。
自分の伴侶である妻、もしくは夫が、キリストの弟子になるな、神学校へ行くな、
キリストへの奉仕も行うな、それより、自分を大事にしろ、といわれたら、
どうするのか?
妻、夫を優先し、愛し、キリストに仕えることをないがしろにするなら、
弟子として歩むことなど、あり得ないのです。
どちらか一つなのです。


27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。”

自分の十字架を負うとはどういうことか?このことは他の聖書の箇所では、
こう語られています。
 

”ルカ923「イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」”
 

ですから、十字架を毎日負うこと、自分を捨て、自分の楽しみやら、野心やら、
場合によっては、自分のキャリアや生活をも捨てて従うつもりがなければ、
主の弟子として全うできないといわれているのです。

28 塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。
29 基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、
30 『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった。』と言うでしょう。”
 

さて、弟子として歩むことは塔を築くことであると語られています。
この塔とは辞書をみた限り、敵の来襲に備える塔の様です。
ですから、弟子とは、群集と異なり、高い塔であり、また敵の来襲に対抗する
塔なのです。

そのように目的や用途はすばらしいのですが、しかし問題は、
その塔をきちんと完成できるかどうかという問題です。
塔でもビルでもマンションでも完成して初めてなんぼのものなのです。

完成していないマンションは、人に貸すことも、住むこともできず、結果家賃も取れず、無用の長物です。
同じく完成しない塔も同じです。完成していない、あるべきところにいっていない
弟子とは、神も人も用いることができない、それを知るべきです。

神の前に献身する、神学生になる、牧師になる、神父になる、
それは一つのことであり、尊いのかもしれませんが、
問題はきちんと完成した塔になるのかどうかということです。このことは別の話です。
全ての献身した神学生が、また、牧師、神父が弟子になるわけではありません。
逆に基礎だけで、完成できない塔のような人も多いのです。

塔は敵を防ぐためのものですが、敵に倒されてばかりの塔、弟子では
はっきりいいますが、無用の長物です。

「まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算」するとは、具体的に
どういうことをさすのか?
それは上記、「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。」のことばと連なっています。

塔を建てるための費用は誰でも持っているのですが、問題は、その分配です。
例えば、自分に塔を建てるに必要なお金、1000万円があるとします。
しかし、その半分を妻のために使ってしまうなら、もう500万円しか残っていません。結果、費用は足りず、
塔は半分、基礎までしかできず、弟子として未完成、弟子としてあるべき、
完成やら、奉仕には至らず、人にも神にも役に立たないものとなってしまうのです。
 
 
 
 

31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。
32 もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。”
 

この箇所は弟子の歩みを別の面から語る箇所です。
それは、敵との戦いという側面です。弟子こそ、主の勇士として、敵と戦うものなのです。
さて、ここでの問題も数が足りないことです。
敵は2万人を引き連れてくるのに、こちらは一万人しか兵隊がいないということです。
それを解決するには、自分のところもあと、一万人増やして二万人にしなければ、
ならないのに、それを惜しんで戦いに出ていくという問題なのです。

惜しんだ結果、相手の王にさんざん倒され、
恥を受けてしまったり、再起不能になってしまうのです。

弟子として名乗りをあげる、牧師、神父になることは一つのことですが、
全てのものを捨てて従うかどうかは、また別の問題です。たとえ、自称弟子でも、
それが、捨てるべきものを惜しんで、一万人の兵しかない軍なら、
未来はもう見えており、早晩、敵に倒され、大きな恥を受けることは明白なのです。
その残りの1万人の勢力とは、私達が、父、母、妻、子などに費やしているものなのです。

しかし、キリストののもとに来て、「自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎」む者は主の弟子であり、彼らを通して主の働きは進むことを知りましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。
ー以上ー
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