本日は、マグダラのマリヤという題でメッセージをしたいと思います。
テキストに沿って見ていきます。
”1 さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」”
主は十字架にかけられ、死んでしまったのですが、しかし、
その墓にやってきた一人の女性がいます。それは、マリヤ、マグダラのマリヤです。
朝はやくまだ暗いうちに彼女はやってきました。
何が彼女をつき動かしていたのでしょうか?
誰かが彼女に墓へいくよう命じたのでしょうか?
誰も彼女に命じていません。ただ、彼女は自分を悪霊から解放したイエスを愛しており、
それが彼女をつき動かしていたのです。
”3 そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。
4 ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。
5 そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中にはいらなかった。
6 シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓にはいり、亜麻布が置いてあって、
7 イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。
8 そのとき、先に墓についたもうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て、信じた。
9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。
10 それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った。”
彼女のことばに従って二人の弟子が墓にやってきました。
しかし、彼らは墓にイエスがいないことを確認すると、また自分のところに
帰っていきました。
彼らの反応、態度はまあ普通の人の反応です。特別なことは
何もありません。きわだっているのは、異なっているのはマグダラのマリヤの対応、
態度です。
”
11 しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
12 すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。”
「しかし」、マリヤは...という小さなことばが私達の心を打ちます。
彼らはそれでよかったのかもしれないが、彼女はそれで納得ができなかったのです。
彼女は泣きながら、そこにたたずんでいました。彼女はイエスを深く愛しており、
たとえ死体であってもイエスがいないことが悲しかったのです。
彼女のその動機、行動の動機は、神学やら、教理やら、たまものでは説明がつきません。
ただ、愛ということばで説明がつくのです。
”
13 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」”
2人の天使は彼女の泣いているその理由を尋ねます。「なぜ泣いているのですか。」
彼女は、主のからだがないこと、それが悲しいと答えます。
そのからだとは死体であることを覚えましょう。生きている主イエスなら、
彼女にとって益になるかもしれません。彼女の病をいやしてくれるかもしれないし、
悪い霊を追い出してくれるのかもしれません。しかし、死体はそんなことはしません。
他の人には無価値としか思えない、イエスの死体をしかし、彼女は求め、それがないことで泣いていました。何故か?何故、彼女は泣いているのか?
それは愛ということを考えなければ理解できません。
彼女は、イエスを深く愛しており、それゆえ、たとえ死体であっても
イエスの体がないことに耐えられなかったのです。
”
14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。
15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」”
主イエスが目の前にたっているのに、マリヤは気がつきませんでした。
主イエスもマリヤに尋ねます。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」
彼女が泣いているのは、イエスがおられないからであり、また彼女が
探しているのはイエスの体です。
ここで明らかになるのは、彼女が主イエスを心から愛していたことです。
彼女はまた、こうもいっています。
”「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」”
何と、彼女は墓から、男性の死体を引き取ろうというのです。
それを自分の家に持って帰るのか?
こわくはないのか?
驚くべき、深い愛です。
聖書に、以下のように神を愛することが書かれています。
”マタイ22:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』”
私達はこれらの記述から、彼女、マグダラのマリヤこそ、心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主、すなわちイエスを愛した女性であることがわかります。
”
16 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。”
この時、初めて彼女は目の前にいるのが、主イエスその人であることを理解しました。
そして、彼女は復活の主に最初に出会ったのです。
このことには何かかたりかけがあるように思えます。
主イエスが復活した時、12弟子でもなく、他の人でもなく、しかし、
最初に出会ったのは、マグダラのマリヤであったのは、かたりかけがあるように思えるのです。
12弟子であるペテロもヨハネも一応、墓まで来たのですが、しかし、復活の主には会わないで
帰ってしまったのです。
このことに何か意味合いがあるのでしょうか?
私にはこう思えます。
結局は深く主を愛する人が復活の主に会う、そう思えるのです。
また、復活の主に会うということを通して、我々が復活を経験するということをもし、語っているなら、
深く主を愛している人が結局は復活するのです。
聖書の多くの記述は、クリスチャンが復活の主に見えることをさして、
結婚になぞらえて語ります。
たとえば、賢い花嫁と愚かな花嫁の話、さらに以下の箇所です。
”黙示録21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。”
主に選ばれるクリスチャンと主イエスとの関係は結婚になぞらえられるのですが、
そこで、質問です。結婚においてもっとも大事なことは何でしょう?
私が思うにはそれは愛なのではないかと思います。
誰も愛していない人とは結婚しません。
自分のことを思い返してもそうです。
私が若い頃お世話になった教会には、結構たくさんの未婚の男女が集っていました。
男性の目から見ると、美しい女性も多く、性格のよい女性も多く、また信仰の
しっかりした女性も多かったのです。
しかし、個人的には、それらのすばらしい女性の誰も、私とは何の関係もありませんでした。
その理由は彼女達の誰も私の事など関心がなく、誰も私の事を何とも思っていなかったからです。
そんな私ではありましたが、ある時、新しく来られた女性が、私に目をとめてくれ、
関心を持ってくれ、そして、愛をもってくれたので、私は彼女と結婚を意識するようになりました。
教会のどの女性も私とは何の関係もなかったのですが、その愛を示してくれた彼女とは
特別な関係、結婚関係をいずれ持つようになりました。
何でこんなことを書いているのかというと、いかに私がもてなかったかと自慢しているのではなく、主イエスと我々の婚姻関係も、
もし、愛がなければ、それは成り立たないといいたいのです。
マグダラのマリヤの様に心をつくし、精神をつくし、思いをつくして主で
あるイエスを愛する人は結局は復活の主に会うのです。また、復活を経験し、主の花嫁となるのです。
クリスチャンはキリストの花嫁とはよくいわれます。聖書は、明らかにキリストが花嫁となるという表現で語っています。
そして、花婿が花嫁を迎えるとき、最も大事な
条件は、花婿を愛する人であること、それを覚えておきましょう。
私達が精神をつくし、心をつくし、思いをつくしてこの方を愛しているかどうかは、
私達が復活を経て主の花嫁となるかどうかの大きな条件となりえます。
このことを知りましょう。
終末における主のみこころを行いましょう。
ー以上ー