NO. 669家つくりらの捨てた石


”テキスト:詩編118:22 家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。
23 これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。

本日は、家つくりらの捨てた石という題でメッセージをしていきたいと思います。
 

”22 家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。”

家を建てるものたちとは誰かと言うと神の家、教会を建てる人々のことです。
主イエスの時代においては、律法学者、祭司長、パリサイ人達です。
 

そして捨てられた石とは、誰かというと主イエス御自身のことです。

何で石と家が関係あるかというと、エルサレムの家々は石からできているからです。
そして、家を造る大工達は、形といい、色と言い、堅さといいよさそうな石を
家を造る材料として留めます。しかし、小さかったり、もろかったり、見た目がわるかったり、
どうにも使えない石に関しては、「これはいらん」とばかり捨ててしまいます。

主イエスは、その当時の家造り達、神の集会を司る人々にとっては、使えない石、
材料としては用いられない石とみなされてしまいました。
彼らの結論としては、この石は捨ててしまえ、そういうものだったのです。

何故、家造りである、彼ら宗教指導者は、イエスをただしくとらえず、この方を
捨ててしまったのでしょうか?
 

それは、その理由は、この時、主イエスの時が旧約の神の民への裁きの時だったからです。
神は彼ら旧約の神の民の指導者達、また彼らの背教に対して怒りをもっており、
それで、主イエスは、家造りたちにとって、理解しにくい、正しく悟りにくい、
難問としてやってこられました。

その姿、風体、家柄、学歴等からはそれとわからない形、真のメシヤ、教会の
土台であると理解しにくい形で主はこられたのです。
 

もしかすると主イエスの外見もあまりメシヤらしからぬ人だったのかもしれません。
以下の様にイザヤ書は記載しています。
 

”イザヤ53:1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。
2 彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。”
 

「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」
とは、要するに主イエスはいけめんでもなく、ハンサムでもなく、みばえの
良い人でもなかったのかも知れません。

今のヴィジユアル系、アイドルタレントの様な容姿は持っていなかったのかも知れません。
 
 

「 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」とは、要するに、外見だけで人を圧倒するという
タイプではなかったのかもしれません。

このように主は、まるで人の期待を裏切るかのように、人間的な面では一目でそれである、
メシアであると
わかる様な人ではなかったことが想像されます。
それで、人間的なこと、人からのこと、見えることしか見てない人々からは、捨てられ、相手にされず、
見限られてしまったのです。
 
 

しかし、全ての人が彼をメシヤであると理解できなかったかというと、そうではありません。
ペテロ、ヨハネを始め、正しく神に仕えていた人は彼をメシヤであると認めたのです。

人間的な目でものごとを判断するか否かの区分がここで起きてしまいました。
 

さて、主イエスの時にはこのようなパターン、神の真に選んだ石は、何と、
人のトップ、家造り達からは捨てられるというパターンがあることを見ました。

同じようなパターンが今でも主の選んだ石に関しては起こり得ることを知りましょう。

何をいっているのかというと、今の時代でも主が真に選ぶ石は、人の判断では、不要ということで、
捨てられるタイプ、人からは重用されるタイプではないということを言っているのです。
 

使徒パウロも主に選ばれ、教会に集っている人々についてこう語っています。

”1コリント1:26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。”
 

召された人々には、この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くは
ないことがわかります。

ですから、これらの人も人に捨てられた石なのです。
 

ですから、今の時代、私達が人から捨てられた石であっっても何も
心配はありません。主に正しくつくなら、主が拾ってくれ、用いてくれます。

人より、能力がない、見た目もよくない、声も悪い、要領も悪い、それでも
心配はありません。正しく主につくなら、主は主の方法で用いてくれます。

それから、もう一つのことがあります。それは、今の時代でもやはり、この方法、
人から捨てられた石という方法は用いられているということです。

今の時代でも主が用いる人には、捨てられた石が多い、すなわち、人から、またまっとうな教会やら、クリスチャンからは相手にされなかったり、見た目が悪かったりが多いのです。

人間的なこと、またそれしか見ない人は結果として、
間違えることが多いのです。

終末における主のみこころを行いましょう。
 

ー以上ー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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