”テキスト:詩編127:0 都上りの歌。ソロモンによる
1 主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。
2 あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。
3 見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。
4 若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。
5 幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。”
本日は主が家を建てるのでなければ、という題でメッセージしたいと思います。
テキストに沿って見ます。
”0 都上りの歌。ソロモンによる
1 主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。”
この言葉、「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。」との言葉は、献堂式の時によく使われる言葉です。
立派な会堂が建っても、それを建てるのは主である、そうでないと空しい仕事となる、というわけです。
さて、この言葉には、そんな意味合いもあるのでしょうが、しかし、たとえの意味合いもあることを知りましょう。
家は物理的な家との意味合いもあるでしょうが、しかし、神の家、教会に関するたとえと理解出来ます。
会堂を建てる、献堂式を行う、それは、資金が必要だし、皆の協力が無ければ、出来ないので、それは大変です。しかし、更に大変なことがあります。それは、キリストの体である、教会をいかに建て上げ、建造し、組み上げていくかということです。
教会はどのようにして建て上げられていくのでしょうか。伝道をして、人を増やし、そして、その人に教育をし、訓練をして、そんな人々が集まって大きな教会が出来るのでしょうか。
でも昨今、教会では色々問題が起きます。牧師がおかしな教理を掴んでしまい、異端的な教会になるかも知れない、はたまた、信徒が反乱を起こし、牧師を追い出すかも知れない、色々な問題が起こり得るのです。
そんな起きてくる数々の問題、トラブルを考えていたら、気の弱い人は、とても教会など建てようと思わないかも知れません。
私達は伝道をし、信徒を集め、また、教会を建てるべきなのでしょうが、しかし、そのことと関連して、聖書は、「主が家を建てるのでなければ」と語っていることを知りましょう。
主が家を建てるのでなければ、と書かれている以上、そうでない教会、人が建てた教会もあるのでしょう。
しかし、そのような教会は空しい、最終的には意味のない教会、崩壊する教会となる、そう御言葉は語っているように思えます。
私達が神学校を出る、そして教会を建てる、それは、尊いことですが、しかし、それがその人だけの力、人の力だけにより、建てあげるなら、結局は、空しいものになる、それを知りましょう。
教会を正しく建てようとすると、あらゆるトラブルがあります。
おかしな信者が来るかも知れませんし、牧師自身がおかしな教理に惑わされてしまうかも知れません。
おかしな霊のリバイバル集会に惑わされてしまうかも知れません。
それらの結果、教会が潰れれば結局は空しい結果となってしまうのです。
しかし、主が建てるなら、そうはならないでしょう。
「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。」と書かれているからです。
ところで主が建てる家、教会とは具体的にはどういうものなのでしょう。
具体的にはポイントポイントで主に聞く、主の意向を伺うことでは、そう私は思っています。
誰を奉仕者にするか、それは主に聞く、またどのような奉仕を教会でするのか?
それも主に聞く、そうしていく時、主が建てる家が出来てくるのでは、そう思うのです。
聖書には、いずれ反キリストが擁立され、教会は、それに席巻されて、艱難時代に入っていくことが書かれています。
それにより、世界のキリスト教会は一変するでしょう。今迄の異端はもう異端ではなく、あらゆる汚れた宗教を我々は受け入れるように強制されるようになるでしょう。
その時、我々はどうすべきなのか?それは今主に聞かなければなりません。
多くの教会がその日倒れ、教会の名はあっても実質教会ならぬものになり、崩れていきます。
そうです、空しいことになるのです。
今、主に聞かずに建て上げられ、続いている教会はその日、崩れ、その努力は空しいものとなるでしょう。しかし、主が建て上げた教会はそうではありません。
終末における主の御心を行いましょう。