NO.667愛をかきたてない

”テキスト:雅歌8:4「エルサレムの娘たち。私はあなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」”
 

本日は愛をかきたてないという題でメッセージをしたいと思います。

テキストは上記雅歌の箇所です。

雅歌はどんな書かというと、一読すればわかるように、恋愛歌です。
何で、敬虔な書、聖書に恋愛歌が入っているかと言うと、
私の理解では、妻である教会とその花婿である
キリストとの間を象徴的に歌った書だからではないかと思っています。
 

御存知の様に律法の中でもっとも大事な戒めは心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして
神を愛することです。

しかし、この戒めもよく知られてはいますが、実行しようと思うと
少し正直ギャップがある戒めです。
そんな風に思うのは私だけでしょうか。
 

何故かというと、人間、律法で決められたからといって、愛することはできないものなのです。
律法や、法律、規則で、交通ルールや、学校へ時間までに行くことは守れても、
いざ、心を尽くして愛せよといわれても、なかなか難しいものなのです。
どうでしょうか?

でもクリスチャン生活を正しく送り、主に正しく聞いていき、正しいみことばの知識を
持つようになれば、人は自然にこの方、神であるイエスを愛するようになるものです。

個人的なことをいうなら、神への愛、キリストへの愛と言う観点から見るなら、私もそれほど、さとい者でも早いものでもまた
熱心なものでもありませんでした。
 

しかし、この方の忠実、真実、また我々に対する深い愛と犠牲を知るにつれ、及ばずながら、
この方を愛するようになったのです。

でもそうなるまで、何年も否、何十年もかかりました。
 

私達は神をまた、キリストを愛するべきなのですが、しかし、
その愛を「揺り起こしたり、かき立てたり」してはいけないのです。

具体的には、人に神を愛せと命じたり、強制してはいけないのです。
そうされたら、それは何か別のもの、義務やら、しかたなしにするものとなってしまいます。
 

尊いことは、非常に尊いことは私達が、誰かに「揺り起こしたり、かき立てたり」されず、
しかし、自然にわきあがる愛でこの方を愛するようになることです。

さらに個人的なことを少し書きます。
私の青年時代のことですが、とっても感激したことがあります。

それは教会に集うある姉妹があろうことかというべきか、よりによってというか、私に
好意をいだいていることを知った時です。
 

私はその方に何のアプローチもしていないし、
特別な声をかけたわけでも、なかったので不思議でした。

いきさつはそんなだったのですが、そのことをきっかけに
私もその方を意識し、だんだん愛がめばえ、いずれ結婚することになりました。
 

私が若い時属していた教会はわりと大きな教会だったので、若い未婚の男女が結構いました。
姉妹達も多くいたのですが、私はそのうちの誰とも特別な仲にはなりませんでした。
何故なら、彼女達にとって、私は特別意識する男性でもなく、気にかける
相手でもなかったからです。

結果、私は彼女達の誰とも、特別な関係にならず、しかし、先程の姉妹とは
結婚することになったのです。姉妹の立場でいえば、花嫁となったのです。

彼女が私にとっての花嫁となった、その理由は彼女が他の姉妹とは異なり、あろうことか、私の事を愛していたからです。
こんな例でたとえるのは恐縮ですが、しかし、
私達が主イエスの花嫁となるという時、同じことがいえます。
 

キリストの花嫁となり、妻となる人はキリストを愛している人だということです。

結婚は誰でもできるようですが、しかし、一つだけ条件があり、それは、
愛していない人とは結婚できないということです。
ですから、私達がキリストの花嫁となり、迎え入れられると言う時、
そもそも私達がキリストを愛しているのかどうかが、大きなわかれめになります。

私達は神をまたキリストを心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして愛すべきなのですが、
しかし、一つ気をつけることがあります。それは、無理に強制的に、恣意的に、
義務的に神を愛そうとはしないことです。

それを明らかにテキストのみことばは語ります。
神を愛せよと律法は命じているのに、このようにいうのは、矛盾しているようですが
しかし、愛は「揺り起こしたり、かき立てたり」してはいけないのです。

「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」と
書かれているように、私達が正しくキリストに従っていくなら、自然に
愛が目覚める時がきます。それまでは、無理なことや義務的な思いで、神を愛そう、キリストを
愛そうとすることはないだろうと思います。

クリスチャン生活の初めには浅かった私のキリストへの知識も年とともに、また経験とともに増してきました。

かつてはことばの上でだけ、教理上でしか知らなかったキリストの愛を真実に理解するようになりました。
私はある時、キリストが本当に私のために自分の命を捨てたんだということがリアルにわかりました。
その時、この方、自分のために唯一犠牲になったかたへの感謝と愛がわきおこってきました。

また、私はこのサイトに書いてあるようなメッセージをしていたために
教会を、神学校を追い出された者です。いわば多くの人の裏切りやら、
反対、非難を受けてきたものですが、ある日、私は気付きました。
他の人はどうでもこの方だけは私に対して、真実を尽くしてくださった方であることを。

そして、私のこの方への愛はさらに増したのです。
これらは決して「揺り起こしたり、かき立てたりし」た愛ではありません。
しかし、主の真実を知る度に自然と沸き起こったものです。

そして、このこと、強制や、義務でなく、しかし、自然に目覚める愛が尊いのです。

私達は主を愛するべきなのですが、しかし、その時、一つ気をつけるべきことがあり、
決して、愛を「揺り起こしたり、かき立てたりすべきでない」このことを知りましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
  -----------------------------7d96e30400fe Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream