”テキスト:詩編126:0 都上りの歌
1 主がシオンの捕われ人を帰されたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。
2 そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき、国々の間で、人々は言った。「主は彼らのために大いなることをなされた。」
3 主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ。
4 主よ。ネゲブの流れのように、私たちの捕われ人を帰らせてください。
5 涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。
6 種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。”
本日は、涙とともに種を蒔く者はという題でメッセージをしたいと思います。
上記御言葉、涙とともに種を蒔く者は、という御言葉は、伝道、御言葉の種を蒔くことと関連してよく
言われます。そういう意味合いもあるかも知れませんが、よく見ると少し、異なった意味合いが見えます。そのあたりを見たいと思います。
テキストに沿って見ます。
”1 主がシオンの捕われ人を帰されたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。”
捕われ人とは誰かと言うと、たとえばバビロンへ捕囚された人々です。
彼らが解放され、エルサレムへ戻って来る、それは、素晴らしい日です。
しかし、そのことと下記の涙とともに種を蒔くこととが何の関係があるのでしょうか?
”5 涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。
6 種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。”
これらは一見何の関係も無いかのように見えます。
しかし、よく見ると、実は大事な関係があるようです。
かつての日のバビロン捕囚、それは終末の日に起きる、バビロン、アメリカと関係あります。
何故アメリカがバビロンであると断定的なことを言うかと言うと、聖書の御言葉の所々の箇所で、そう語っているからです。
現在のキリスト教会の世界のリーダーは、アメリカであり、あらゆるヨタ教理、嘘話、オカルト的な空想教理、悪霊リバイバリストどもは皆、アメリカを起点として、起きます。
アメリカこそ、現代のバビロンであり、この国を起点としたオカルトキリスト教教理、終末嘘話を鵜呑みとしている人々は、皆、すなわち「捕われ人」なのです。
彼らの霊的な実質はバビロンに捕らわれ、捕囚された人々なのです。
彼らが艱難前、中携挙説だの、ヨーロッパが獣の国であるとか、アメリカは聖書に出てこないだとかの
嘘話が本物のように見えることは、すなわち、既にバビロンに捕えられているからなのです。
また、あのベニー・ヒンを始めとした悪霊リバイバリストの霊が神からのものと思えるということは、既にバビロンゆかりのぶどう酒に酔っているからと言えます。
彼らは捕われ人なのです。
さて、この様におかしな教理に捕らえられ、すっかりバビロンに捕囚された人々を解放する手立てはあるでしょうか?
おかしな教理に惑わされ、それが正しい教理であると、すっかり信じ込んでいる人々を救い、バビロンに捕囚された人々を解放するには、どうすれば良いのでしょうか?
その答えこそ今回のテーマである「種を蒔くこと」なのです。
おかしな教理、毒麦が行き渡った畑に良い麦を育てようと思うなら、何はともあれ、良い麦の種を蒔かなければなりません。
艱難前携挙説が間違っており、バビロンゆかりのヨタ教理であることが理解出来たのなら、それは偽りであり、正しい終末の教理は、こうであるとして、正しい御言葉の種を蒔かなければならないのです。
また、獣の国はヨーロッパである等とのバビロンゆかりの嘘教理に、とりこになった人を解放する為には、聖書に基づいて、アメリカこそ、その獣の国であるとの教理を蒔かなければならないのです。
たとえその種蒔きが非難されようと、苦難があろうと、やはり、種を蒔き続けなければならないのです。そして、続けた人はある日、その結果を見ます。
”主がシオンの捕われ人を帰されたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。”
強国バビロン、ライオンに、たとえられるあの獰猛な国に捕らえられて行った人々が戻って来る、解放されて来ることを望むのは絶望的です。
まず、ありえないことなのです。
しかし、それが目の当たりに実現した時、詩編の作者は、「私たちは夢を見ている者のようであった」と、その驚きを語っています。
このことは、今の時代も同じであり、あのアメリカ、現在のバビロンであるアメリカゆかりの嘘教理の力は強く、誰も彼も嘘教理を後生大事に抱えています。
これこそ本物の教理として、すっかり捕らえられているのです。
彼らが正しい教理に戻って来ることは、ほぼ絶望的にさえ見えます。
しかし、主が奇跡を起こせば、そのあり得ないことも起こります。
だから、「私たちは夢を見ている者のようであった。」と言えるのです。
”2 そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき、国々の間で、人々は言った。「主は彼らのために大いなることをなされた。」
3 主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ。”
バビロンに捕らえられた人が戻ってくることなどあり得るのでしょうか?万軍の主がなされば、それは起きます。
では、あのバビロン、アメリカゆかりのヨタ教理にすっかり骨の随迄、洗脳された人々が戻って来ることはあり得るのでしょうか?
やはり万軍の主がなさるなら、それは起きるでしょう。
というより、私達はそれを見ています。
私達はもう10年以上も、このようにしてネット上で種を蒔き続けています。
バビロンゆかりのヨタ教理に対抗すべく正しい種を蒔き続けているのです。
その中で、正しい御言葉に戻ったという人々の声を聞いています。
艱難前携挙説の誤りから立ち戻った、その呪縛から、立ち返ったという人々のことも聞いています。
”4 主よ。ネゲブの流れのように、私たちの捕われ人を帰らせてください。”
ネゲブとは南という意味です。旧約の北イスラエルは今のカソリックに相当するでしょうか、また
南のユダは、今のプロテスタントに相当するでしょうか。
旧約の都の回復は南のユダのエルサレムからでした。
同じように終末の日のバビロンからの解放も南、すなわち、プロテスタントから起きるでしょう。
”5 涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。”
何故、種を蒔くのに涙を流さなければならないのか?
いくら田舎へ行っても泣きながら種蒔きをしている人など、そうそう見当たりません。
だから、この涙とともに種を蒔くということは、何か特別なことであることが分かります。
そして、その涙の訳は、その種、バビロンに対抗する種は人々の反発と憤りと異端扱いをもたらすからです。
その種を蒔くことは苦難を呼び寄せることであり、その種や教理は人々の怒りを引き起すのです。
種を蒔く人への攻撃や、非難が湧き上がるのです。
でも種を蒔き、種を蒔き続けるなら、ある日、実を見、また、バビロンのヨタ教理から解放され、捕囚から解放される人々を見るのです。
私達は何度か黙示録のセミナーを開きました。
その中で、多くの捕囚から解放された人々を見ることが出来ました。
多くの偽りの教理やら、バビロンのぶどう酒、すなわち悪霊リバイバルから解放された人々を見ることが出来ました。
確かにこれらの種を蒔く時、多くの涙があったのですが、今、喜びと共に育った穂を刈り取ることが出来たのです。
”6 種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。”
たとえ、種を蒔く時、涙があり、泣きながらその奉仕をしたとしても、その結果を見、捕囚から帰った人を見、喜び叫びながら、帰って来ることが出来るのです。
これからもこのこと、正しい種、御言葉、教えを続けていくなら、その種蒔き、戦いは涙を伴うものとなるかも知れません。
しかし、いずれ私達は、その結果を見、喜び叫びながら、帰って来るようになるでしょう。
終末における主の御心を行いましょう。