NO. 664ペリシテ人とは誰か(その2)


”テキスト:1サムエル6:11 そして主の箱を車に載せ、また金のねずみと腫物の像を入れた鞍袋を載せた。
12 すると雌牛は、ベテ・シェメシュへの道、一筋の大路をまっすぐに進み、鳴きながら進み続け、右にも左にもそれなかった。ペリシテ人の領主たちは、ベテ・シェメシュの国境まで、そのあとについて行った。
13 ベテ・シェメシュの人々は、谷間で小麦の刈り入れをしていたが、目を上げたとき、神の箱が見えた。彼らはそれを見て喜んだ。
14 車はベテ・シェメシュ人ヨシュアの畑にはいり、そこにとどまった。そこには大きな石があった。その人たちは、その車の木を割り、その雌牛を全焼のいけにえとして主にささげた。
15 レビ人たちは、主の箱と、そばにあった金の品物のはいっている鞍袋とを降ろし、その大きな石の上に置いた。ベテ・シェメシュの人たちは全焼のいけにえをささげ、その日、ほかのいけにえも主にささげた。
16 五人のペリシテ人の領主たちは、これを見て、その日のうちにエクロンへ帰った。
17 ペリシテ人が、罪過のためのいけにえとして主に返した金の腫物は、アシュドデのために一つ、ガザのために一つ、アシュケロンのために一つ、ガテのために一つ、エクロンのために一つであった。
18 また、金のねずみは、五人の領主のものであるペリシテ人のすべての町「「城壁のある町から城壁のない村まで「「の数によっていた。終わりに主の箱が安置された大きな石は、今日までベテ・シェメシュ人ヨシュアの畑にある。
19 主はベテ・シェメシュの人たちを打たれた。主の箱の中を見たからである。そのとき主は、その民五万七十人を打たれた。主が民を激しく打たれたので、民は喪に服した。
20 ベテ・シェメシュの人々は言った。「だれが、この聖なる神、主の前に立ちえよう。私たちのところから、だれのところへ上って行かれるのか。」
21 そこで、彼らはキルヤテ・エアリムの住民に使者を送って言った。「ペリシテ人が主の箱を返してよこしました。下って来て、それをあなたがたのところに運び上げてください。」”
 

本日はペリシテ人とは誰か(その2)として、この件をさらに見ていきたいと思います。
テキストに沿って見ます。
 
 

”11 そして主の箱を車に載せ、また金のねずみと腫物の像を入れた鞍袋を載せた。
12 すると雌牛は、ベテ・シェメシュへの道、一筋の大路をまっすぐに進み、鳴きながら進み続け、右にも左にもそれなかった。ペリシテ人の領主たちは、ベテ・シェメシュの国境まで、そのあとについて行った。”

牛が向かった町の名前は、ベテ・シェメシュ、その意味は太陽の家という意味合いです。
言わんとしていることは真の太陽、主イエスの住む家、教会のことでしょうか。
このような町、教会こそ、主の臨在がめざす場所、そういうことを示しているのでしょうか。
 

”13 ベテ・シェメシュの人々は、谷間で小麦の刈り入れをしていたが、目を上げたとき、神の箱が見えた。彼らはそれを見て喜んだ。
14 車はベテ・シェメシュ人ヨシュアの畑にはいり、そこにとどまった。そこには大きな石があった。その人たちは、その車の木を割り、その雌牛を全焼のいけにえとして主にささげた。
15 レビ人たちは、主の箱と、そばにあった金の品物のはいっている鞍袋とを降ろし、その大きな石の上に置いた。ベテ・シェメシュの人たちは全焼のいけにえをささげ、その日、ほかのいけにえも主にささげた。

この日、ベテ・シェメシュの人たちは、雌牛を全焼のいけにえとして主にささげました。
ペリシテ人は、そのようなささげものをしていません。

私達は、神の前に全焼のいけにえをささげるべきです。火で全く焼けた
いけにえ、それは、聖霊の火で、全く焼け、肉が残されていない
状態をさします。
 
 


16 五人のペリシテ人の領主たちは、これを見て、その日のうちにエクロンへ帰った。
17 ペリシテ人が、罪過のためのいけにえとして主に返した金の腫物は、アシュドデのために一つ、ガザのために一つ、アシュケロンのために一つ、ガテのために一つ、エクロンのために一つであった。
18 また、金のねずみは、五人の領主のものであるペリシテ人のすべての町「「城壁のある町から城壁のない村まで「「の数によっていた。終わりに主の箱が安置された大きな石は、今日までベテ・シェメシュ人ヨシュアの畑にある。”

ペリシテ人は罪過のためのいけにえとして、金の腫物と
金のねずみをささげました。
罪過のいけにえですから、これらの腫物もねずみもともにペリシテ人の罪と関係があります。

ペリシテ人は今でいう未信者の型ではなく、ある種のクリスチャンをさすたとえと
理解できます。それは、腫物、血に関する問題のある人々、霊的に問題のあるクリスチャンのたとえ、
はたまた、ねずみ、麦を、みことば、教理を食い荒らし、滅ぼすクリスチャンの型です。
そして、それらは、金で作られていました。金は信仰のたとえであり、
みことば、教理を悔い尽くす様な信仰のクリスチャンを意味します。

このような人々が主の箱、すなわち、聖霊を受けて、神の臨在を受けると、
それは、祝福というより、逆にその人へのわざわいとなる、このことをこの箇所は語っています。
 

”19 主はベテ・シェメシュの人たちを打たれた。主の箱の中を見たからである。そのとき主は、その民五万七十人を打たれた。主が民を激しく打たれたので、民は喪に服した。
20 ベテ・シェメシュの人々は言った。「だれが、この聖なる神、主の前に立ちえよう。私たちのところから、だれのところへ上って行かれるのか。」
21 そこで、彼らはキルヤテ・エアリムの住民に使者を送って言った。「ペリシテ人が主の箱を返してよこしました。下って来て、それをあなたがたのところに運び上げてください。」”

さて、主の箱がベテ・シェメシュの人のところに来たのですが、それが
そのまま祝福になったのではなく、逆に箱の中を見たために裁きにあいました。
 
 

これらのことを通しての学びは、主の臨在は、誰に対しても祝福となるわけではない、
逆に裁きに会う人々もいる。
ふさわしい方法で、この方の臨在に対応せず、不敬虔な対応をするなら、それは、
その人に害をもたらすということでしょうか。

今の時代でいうなら、私達は私達のうちに臨在する方に
対してどう対応するかで、大きな祝福もしくは大きな災いに会うのです。

これは、神のみことば、剣に関する事柄に通じます。
聖書は神のみことば、剣に関しても、祝福と呪い、2つがあり得ることを述べています。
ゴリアテは無敵の大巨人でしたが、彼は何と自分の剣で、自分の首を
切られてしまったのです。またイスラエルの初代王、サウルも自らの剣で、
命を落としました。

剣は敵を倒すとは限らず、自分を害することもあるのです。
これは、神のことばの2面性、すなわち神のことばを通して、祝福を受けるということばかりではなく、
逆に神のことばをもとに全然全く別の教理に入ったり、惑わされたり、果ては永遠の命を失うこともある、
それをさしているのです。
事実、自由主義神学、近代神学を標榜する人々はもうすでに永遠の命と何ら関係のない、
信仰をもっています。彼らはキリストの復活を信じません。
しかし、そんな人々は、聖書的に言えば、クリスチャンとは認められず、従って、永遠の命など受けられない存在なのです。

「心で信じて義とされ、口でいいあらわして救われる」と
書いてあります。

そして、キリストの復活はない、などとトンでも発言をする人々はなんと聖書を元にそう語っているのです。まことに剣が自らの命をも奪うことがわかります。彼らは見事に自分に刃を向け、自らの命を
奪っている愚か者です。
 

まとめますが、ペリシテ人は明らかに、明らかにある種のクリスチャン、
みことばの敵となるクリスチャンをさすと思われます。

このような歩みにはポイントがなく、しかし、主の臨在が災いをもたらすことを
知りましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。
ー以上ー
 
 
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