No. 663ペリシテ人とは誰か


”テキスト:1サムエル6:1 主の箱は七か月もペリシテ人の野にあった。
2 ペリシテ人は祭司たちと占い師たちを呼び寄せて言った。「主の箱を、どうしたらよいだろう。どのようにして、それをもとの所に送り返せるか、教えてもらいたい。」
3 すると彼らは答えた。「イスラエルの神の箱を送り返すのなら、何もつけないで送り返してはなりません。それに対して、必ず罪過のためのいけにえを返さなければなりません。そうすれば、あなたがたはいやされましょう。なぜ、神の手があなたがたから去らないかがわかるでしょう。」
4 人々は言った。「私たちの返す罪過のためのいけにえとは何ですか。」彼らは言った。「ペリシテ人の領主の数によって、五つの金の腫物と、五つの金のねずみです。あなたがたみなと、あなたがたの領主へのわざわいは同じであったからです。
5 あなたがたの腫物の像と、この地を荒らしたねずみの像を作り、イスラエルの神に栄光を帰するなら、たぶん、あなたがたと、あなたがたの神々と、この国とに下される神の手は、軽くなるでしょう。
6 なぜ、あなたがたは、エジプト人とパロが心をかたくなにしたように、心をかたくなにするのですか。神が彼らをひどいめに会わせたときに、彼らは、イスラエルを自由にして、彼らを去らせたではありませんか。
7 それで今、一台の新しい車を仕立て、くびきをつけたことのない、乳を飲ませている二頭の雌牛を取り、その雌牛を車につなぎ、子牛は引き離して牛小屋に戻しなさい。
8 また主の箱を取ってその車に載せなさい。罪過のためのいけにえとして返す金の品物を鞍袋に入れ、そのかたわらに置き、それを行くがままにさせなければならない。
9 あなたがたは、箱がその国への道をベテ・シェメシュに上って行けば、私たちにこの大きなわざわいを起こしたのは、あの箱だと思わなければならない。もし、行かなければ、その手は私たちを打たず、それは私たちに偶然起こったことだと知ろう。」
10 人々はそのようにした。彼らは乳を飲ませている二頭の雌牛を取り、それを車につないだ。子牛は牛小屋に閉じ込めた。
 

本日は、ペリシテ人とは誰かという題で、メッセージをします。テキストに沿って見ていきます。

1 主の箱は七か月もペリシテ人の野にあった。”

主の箱は、神の臨在を示し、聖霊の存在を示します。
神が臨在すれば、全ては祝福となりそうですが、このペリシテ人の地においては、
そうはなりませんでした。逆に災いとなったのです。

ですから、大事なのは、その民がどのような民かどうかということです。
ペリシテ人の意味合いは、移民という意味合いです。
すなわち、イスラエル、主のみこころの中心の民とは違うのです。
そのたとえの意味合いは、外国の民、神に頼るよりは、他の力、他の神、
この世の神に頼る人という意味合いなのでしょうか。

このことには御心がなく、結果、神の祝福に遠く逆に神を通しての災いに引き込まれます。


”2 ペリシテ人は祭司たちと占い師たちを呼び寄せて言った。「主の箱を、どうしたらよいだろう。どのようにして、それをもとの所に送り返せるか、教えてもらいたい。」”

祝福となるべき主の箱は、ペリシテ人にとっては、重荷、わざわいのもとでした。
ですから、私達は単にクリスチャンである、神の御霊を持っているということだけでなく、
どのようなクリスチャンであるかということが大事なのです。
それにより、私達のうちに臨在する神により、あるいは祝福を受け、あるいは災いを受けることになるからです。

”3 すると彼らは答えた。「イスラエルの神の箱を送り返すのなら、何もつけないで送り返してはなりません。それに対して、必ず罪過のためのいけにえを返さなければなりません。そうすれば、あなたがたはいやされましょう。なぜ、神の手があなたがたから去らないかがわかるでしょう。」”
 

この時、イスラエルの神の箱と関連して、ペリシテ人の罪過のことがいわれています。
ですから、これを通して彼ら、ペリシテ人が象徴する罪過がどのようなものであるか、
わかるのです。

”4 人々は言った。「私たちの返す罪過のためのいけにえとは何ですか。」彼らは言った。「ペリシテ人の領主の数によって、五つの金の腫物と、五つの金のねずみです。あなたがたみなと、あなたがたの領主へのわざわいは同じであったからです。”
 

ここでペリシテ人の罪過のいけにえとして、腫物とねずみがささげられました。
このことの意味合いを考えてみましょう。

ねずみにはたとえの意味合い、たとえの連鎖があると思われます。
すなわち、食い荒らすもの、麦、神のことばを食い荒らすものという
たとえの連鎖があるのです。

ですから、神のことばをそのまま忠実に受けて従う人というより、
神のことばに難くせをつけ、いちゃもんをつけ、へ理屈をつけ、
真っ当なクリスチャンの信仰を覆す人々、そんな意味合いに理解できます。

同性愛擁護の論法を重ねる愚かな神学者、勘違いの愚かなフェミニズム
神学推進の教師等はそのような人々です。

またダビンチコードは正しい、ユダの福音書は真実、イエスは実は十字架になど、
かからず結婚していたなんていう冒涜をいう人はその類いの人です。

また、腫物とは何をたとえているのでしょう?
 

腫物は血と関係があると思われます。
血が出てただれたり、盛り上がったり、これが腫物です。
そして、腫物、できものができることは、出血したり、かゆかったり、
嫌なことです。
ですから、腫物とは血すなわち、御霊に関して問題を起こすこと、といえるかもしれません。
具体的にはおかしな霊を下す人々、御霊をないがしろにする人々、冒涜する人々のことと
思われます。
 


5 あなたがたの腫物の像と、この地を荒らしたねずみの像を作り、イスラエルの神に栄光を帰するなら、たぶん、あなたがたと、あなたがたの神々と、この国とに下される神の手は、軽くなるでしょう。”

このような人々、ペリシテ人にとっては、この神の存在は災いでした。
ですから、私達は知らなければなりません。
クリスチャンの歩みには両面性があること、必ずしも全てのクリスチャンが
祝福を受けるわけではないこと、しかし、ペリシテ人のような歩みをするなら、
その主の臨在により、逆に呪いや問題が起きる、そのことを知るべきなのです。

”6 なぜ、あなたがたは、エジプト人とパロが心をかたくなにしたように、心をかたくなにするのですか。神が彼らをひどいめに会わせたときに、彼らは、イスラエルを自由にして、彼らを去らせたではありませんか。
7 それで今、一台の新しい車を仕立て、くびきをつけたことのない、乳を飲ませている二頭の雌牛を取り、その雌牛を車につなぎ、子牛は引き離して牛小屋に戻しなさい。”

主の箱は、主の臨在をさしますが、それは、結局は、
ペリシテ人に災いをもたらし、そして彼らを離れていきます。
我々が正しくクリスチャン生活を送らないなら、結局は、主の臨在は我々を離れていく、
このことを知りましょう。
 

"

7 それで今、一台の新しい車を仕立て、くびきをつけたことのない、乳を飲ませている二頭の雌牛を取り、その雌牛を車につなぎ、子牛は引き離して牛小屋に戻しなさい。
8 また主の箱を取ってその車に載せなさい。罪過のためのいけにえとして返す金の品物を鞍袋に入れ、そのかたわらに置き、それを行くがままにさせなければならない。
9 あなたがたは、箱がその国への道をベテ・シェメシュに上って行けば、私たちにこの大きなわざわいを起こしたのは、あの箱だと思わなければならない。もし、行かなければ、その手は私たちを打たず、それは私たちに偶然起こったことだと知ろう。」
10 人々はそのようにした。彼らは乳を飲ませている二頭の雌牛を取り、それを車につないだ。子牛は牛小屋に閉じ込めた。"
 
 

牛がこの箱を運んだことは、象徴的です。今の時代も牛にたとえられる、
クリスチャンを通して神の臨在は、運ばれるからです。
さて、彼ら祭司たちと占い師たちは、「箱がその国への道をベテ・シェメシュに上って行けば、私たちにこの大きなわざわいを起こしたのは、あの箱だと思わなければならない。」といいました。
そして彼らが語ったとおり、牛はベテ・シェメシュに上っていきました。この
災いは神からきたものだったことがわかったのです。

みことばの敵となるクリスチャン、また、聖霊の敵となるクリスチャンにとり、
神の臨在は、祝福となるどころか、かえって災いとなる、これがこの箇所での
教えといえるでしょうか。

終末における主のみこころを行いましょう。
ー以上ー
 
 
 
 
 
 
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