No.661 あなたには、決して分からない

テキスト:黙示録31 また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。
2
目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。
3
だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。

 

本日は、「あなたには、決して分からない」という題でメッセージしたいと思います。

 

サルデスすなわち、プロテスタントの教会は、主の再臨の時、方法を見誤り、結果、正しく主の再臨に対応出来ない、このことを見ていきたいと思います。

 

テキストに沿ってみます。

 

” 1. また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。

 

サルデスの意味合いは、赤いものです。その言葉は、旧約の赤いもの、すなわち、エサウ、エドムに
通じます。エサウに関して聖書は、俗悪な者と語っています。

 

以下の通りです。

 

ヘブル人への手紙 1216 また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。

 

「一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者」と書かれています。
このエサウの愚かさは、我々プロテスタントすなわち、サルデスの教会にとって、他人事ではありません。

 

これから、長男の特権すなわち、相続の権利、御国を相続する権利を売り払う、愚かなプロテスタント信者が続出することになるからです。

 

彼らはどのようにして、それを行うのか?
それは、一杯の食物を食べ、飲みすることによってです。

 

一杯の食物は、たとえであり、食べること、飲むことすなわち、教理や霊的なことと関係しています。

 

終末の日の俗悪なエサウ、赤いもの、サルデス、すなわちプロテスタントは、一杯の食べ物、すなわち、終末ヨタ教理を腹一杯食らい、また悪霊の水をたらふく飲み、結果、御国を相続出来なくなる、そのことがサルデスという名前から暗示されているのです。

 

赤いもの、エサウにとり一杯の食物を食らったことが自分の大事な長男の権利、相続の権利を失ったことにつながったように、この一杯の食物は大きな意味合いがあります。同じくプロテスタント各派が、こぞって、御国を受け継がなくなるべく、用意された一杯の食物、教理は、大きな意味合いがあるのです。

 

その食物とは?
たとえば、艱難前携挙説でしょうか。
この教理、食物は、実質的にクリスチャンは、艱難に会わないとの嘘を伝える教理であり、結果、クリスチャンは、終末の警告やら、備えなど、どこ吹く風として、堕落、怠慢の道を歩んでいます。

 

他にも、たとえば、セカンドチャンスやら、またクリスチャンと名が付けば、決して裁きに会わないとする
福音の総合理解等が、その滅ぼす食物です。

 

「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」

 

「行いを知っている、生きているとされているが実は死んでいる」とは、どういうことを言っているかと言うと、サルデス、プロテスタントの教会には、正しい行いが無い、名目はともかく、実態は罪と死の中にあると語っているのです。

 

神の前には全ては裸、あからさまであり、名目など何の関係もありません。
ですから、我々プロテスタントは、神がこの教会をこのように見ているということを謙虚に謙虚に認めるべきなのです。

 

行いを正さなければならず、また、罪から解放されなければなりません。

 

私は外から、キリスト教の外から、こう言っているのではなく、もう洗礼を受けてからでも40年も経たプロテスタントクリスチャンとして、その中で育った者として、そう言っているのです。

 

大変失礼ですが、しかし、はっきりと言いますが、プロテスタントには外はともかく、実質行いのともなっていないクリスチャンが多いです。
偽善者の道を歩むべきではありません。時を見分けることが出来なくなります。

 

 

”2 目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。

 

目をさましなさい。とは、眠っている人について語る言葉です。
プロテスタントは、眠っており、罪の中におり、結果、今の時を理解していません。

 

もう終末の真っ只中、黙示録13章に預言された獣の国の権威の下で、獣の像(反キリスト)が建てられ、そろそろ、艱難時代に入ろうというのに、そんなことを実感しているクリスチャンは、あまり見当たりません。

 

「わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。」

 

行いが全うされず、この世に着いており、うわべ、形だけのクリスチャン、それが神の目の前における有りのままのプロテスタントの教会なのである、このことを知るべきです。

 

学校に関連して言うなら、落第生、家に関して言うなら、見た目だけよくて、中は、ぼろぼろ、まともに住めない、住まいとしては、合格点をもらえない、それがサルデス、プロテスタントの神の前における評価なのです。

 

ですから、私達が平均的なプロテスタントクリスチャンなら、もうそれだけで落第なのです。

 

”3 だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。

 

 

「あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。」
とはどういう意味合いなのでしょう。

 

私が思うには、これは、プロテスタントが受けている基本的な教えやら、教理ではないかと思います。ルターの信仰義認を始め、プロテスタントには素晴らしい教理が伝わっています。問題は、それを堅く守っていないことです。

 

何でも知っているけど行わない教会、それがサルデス、プロテスタントなのです。

 

「もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。」

 

さて、終末の日、目を覚まさず、この世のこと、罪に陥った歩みにいるサルデス、プロテスタントの教会にとって、終末の日は災いとなることがここで書かれています。

 

終末の日は、どのような日であり、どのように、たとえるべきなのでしょうか。

 

私の理解では、その日は、たとえば、学期末の試験の日のようなものかも知れません。

 

きちんと準備した生徒にとっては、良い成績をあげるチャンスです。
しかし、さぼったり、全く先生の言うことなど聞いてこなかった生徒にとっては、赤点、落第、叱責の時となってしまいます。  

 

終末の日は一般的なプロテスタントにとって、どのような日になるのでしょうか。
それは、主の再臨の時を正しく見分けることが出来ず、結果、彼らにとって盗人のように主の再臨が行われる、そのような日なのです。

 

多くのサルデス、プロテスタントのクリスチャンは眠っており、結果、彼らにとって、主の再臨はあたかも盗人が夜、来るようなものであり、決してそれを悟ることが出来ない、そのようなものになるのです。

 

「あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。」

 

さて、この言葉です。どうしてプロテスタントのクリスチャンは、主の再臨の時を理解出来ないのでしょうか?
はたまた、主はどのようにして、そのような事態、「聖書を知っているクリスチャンが主の再臨の時を理解出来ない」という不思議な状態をもたらすつもりなのでしょうか?

 

私の理解では、恐らくそれは、終末の教理、もっと具体的に言えば、おかしな終末教理、終末ガセ教理をプロテスタントの教会に蔓延させることにより、実現されると思われます。

 

かつての日、主の初臨の時が、まさにそのような時でした。
彼ら、当時のユダヤ人は、聖書を持ち、主の来臨に関する全ての御言葉を知り、尚且つ、正しく主キリストを受け入れることが出来なかったのです。

 

まさに彼らは、「あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。」状態だったのです。

 

福音書を読むと多くの人がイエスの回りで、「あの人こそキリスト、(メシヤ)ではないか」と語っています。多くの人の間にメシヤ来臨の預言が伝わっており、ユダヤ人皆にとって、このことは、周知の事実、誰でも、その基本教理は知っていたことが分かるのです。
しかし、そうであったのに、その日、ほとんどのユダヤ人は間違えたのです。


聖書を知っており、メシヤ来臨の預言は皆、分かっている筈だった、律法学者が間違え、神に仕えることを生業としている筈の、祭司達が間違えたのです。
そして、多くの群集も間違えました。

 

間違えたどころか、彼らは積極的にイエス殺しに加担し、自らを罪ある者としてしまったのです。
彼らは、完全に間違え、全く間違えてしまったのです。

 

何故そうなったのか?
そのことを理解しなければなりません。何故なら、そうでないと、我々も同じ轍を踏む可能性があるからです。

 

何故、彼らが間違えたのか?
それには、たった一つの理由があり、それは、神がそのように意図しており、そのように用意しておられたからです。

 

主の初臨の日は旧約の民の最後の終わりの日、裁き、より分けの日、テストの日であり、その為に主の初臨が用いられたのです。
いわば、主の初臨とは、難問が書かれたテスト用紙のようなものであり、正しく歩まない者は、皆より分けられるようになっていたのです。
そのように神はその日を予定しており、そのように実行した、だから皆、間違えてしまったのです。

 

この時は間違えた人の方が多かったのです。
正しく正解を掴み、主の初臨を読み取った人々は12弟子を始め、精々120人位でしょうか。それに反して、間違えた人の数は100万人を超えています。
恐るべきテスト、より分けのテストであったことが分かるのです。

 

学校によっては厳しい先生がいて、クラスの1/3の人が赤点を取るなんてことを聞いたことがありますが、神のこのテストは、そんなレベルを遥かに超えています。

 

さて、かつて起きたことは、終末の日の型であり、再度、この試験は再臨の日に繰り返されることを知らなければなりません。

 

そして、サルデス、プロテスタントの教会に関しては、もう赤点必死、試験の前から先生に「あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。」と既にダメ押しが出ていることを知らなければなりません。

 

我々プロテスタントはそのような教会の中にいるのです。
私達が平均的なプロテスタントクリスチャンなら、それだけで、危ない、そのことを知るべきです。

 

さて、主はサルデス、プロテスタントの教会に対して、「あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。」ともう赤点必死、落第必死のダメ押しを既に出しているように思えるのですが、
このことは、本当でしょうか?

 

私は、これは本当であると思います。というより、既に、プロテスタントは、終末の事柄、再臨の事柄に関して、毒麦、すなわち敵のヨタ話が広く行き渡っており、洗脳が進んでおり、皆すっかり、惑わされた教理のとりことなっています。

 

艱難前携挙説は広く行き渡り、皆、クリスチャンは艱難の前に挙げられると思っています。ですから、携挙も無いのに、突然キリストが来臨し、びっくりしてしまう、そして愚かな花嫁のように用意が出来ていないため、婚姻に間に合わない、外に追い出されてしまう結果となるのです。

 

また、ヨーロッパ、獣の国説、復活したローマ帝国が獣の国になるなどの作られた嘘話が蔓延し、皆、肝心な方を見ず、明後日の方を見ており、ヨーロッパを見る限り、まだまだヨーロッパ統一は時間が掛かりそう、反キリストなる政治指導者も出ていないということで、すっかり安心しきり、突然来臨するキリストに会う備えは出来ないことになるのです。
そうです、主の再臨が、「決して分からない」状態になるのです。

 

正しく聖書が語っていることは、獣の国がアメリカであるということ、そして、反キリストが宗教指導者として、任命されることを預言しています。

 

反キリストは徐々に宗教指導者として、権威をふるい、また偽善的なクリスチャンの間では、圧倒的な人気を博するようになるでしょう。

 

ビリー・グラハム、ヨハネパウロ2世を超えた圧倒的な人気の宗教指導者となるでしょう。その行うしるしと不思議に、悪霊を見分けられない、偽善者は皆、惑わされていくのです。

 

彼の宗教指導方針、政策は徐々に世界中の教会に浸透し、正しく聖書に立って、それに対抗する人は、ほんの限られた人数となるでしょう。

 

7年のききん、厳しい時があり、そのうち後半の3年半には、正しく立つ人など、果たしているかと皆、ふるい分けられます。
その艱難の後に主の再臨がある筈です。
「私の福音」によれば。  

 

しかし、そもそもアメリカが獣の国であることを見ない人が、どうして、その日、反キリストを見分けられるでしょうか。
また、艱難の前に携挙があるなんて思い込んでいる人が、どうして、主の再臨の時を見分けられるでしょうか。

 

これらのヨタ話が浸透し、偽りの教えや毒麦の教えが世界中の教会に浸透し、まかり通っているのは、
それは、神の許しがあるからであり、その裁きの方法は、正しく主の再臨を見分けられないという方法で起こることを正しく知るべきです。

 

かつての日、イエスの時代において、主の初臨を見分けられず、滅んだ多くの不信者に起きたのと同じ裁きが今起きようとしているのです。

 

 

終末における主の御心を行いましょう。