No.660 罪について、義について、さばきについて

テキスト:ヨハネ168 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。
9
罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。
10
また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。
11
さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。

 

本日は、「罪について、義について、さばきについて」という題でメッセージしたいと思います。

 

テキストに沿って見ていきます。



”8
その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。

 

その方とは、聖霊のことです。聖霊が来ると、世に対して、「罪について、義について、さばきについて」その誤りを認めさせるわけです。

 

さて、誤りを認める以上、何か、この世がこれらに関して誤解しているわけです。
どのように誤解し、どのように誤りを是正するのでしょうか。それを見ていきたいと思うのです。

 

”9 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。

 

まず罪について世、この世には誤解があるというわけです。
罪に関して、この世の常識は、どんなものなのでしょう。
それは、思うに、罪とはすなわち、悪いことを行うことと理解されていると思います。
そして、真摯に思いを変え、行いを改めれば善人になれる、そんな理解でしょうか。
しかし、それは理論であり、実際には、そうはなりません。

 

しかし、主はそのことに関して、少し違うことを語っているわけです。
主は「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。」と言われました。

 

だから、私達が罪から解放されない、自由になれない、罪に沈んだままの生活をしてしまうその理由は、
私達が主を信じていない、そのことにあると言われているのです。

 

だから、もっとはっきり言うなら、私達が罪から解放されたいと思うなら、主を信じ、祈り、求め、尋ねていけばよい、そうなります。
このことは事実です。ただし、徹底すればです。

 

真に主を信じ、祈り、御言葉を行う生活をするなら、罪から全く自由になりますが、しかし、重ねて言いますが、主を信じることを徹底すればです。

 

”10 また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。

 

この言葉は分かりにくい言葉です。キリストが見えなくなることと義とされることとが一体何の関係があるのでしょうか。私の理解では、主が「わたしが父のもとに行き、あなたがたが、もはや、わたしを見なくなるからです。」と義に関連して語ったその理由は、父のもとへ行く、キリストを見なくなる、これらの言葉を通して思い起こさせたいことがあるからです。

 

父のもとへ行く、という言葉は、このテキストの少し前の以下の箇所で使われています。

 

ヨハネ167 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。

 

ここでは、もう一人の助け主、聖霊について書かれています。
ですから、私達の義に関しては、聖霊なる方が関係するのです。

 

義という言葉に関して、この世の一般の理解は、どんなものでしょうか。
正しいことを行う、この世の真っ当な道を模範としてそれを行う、そんなことでしょうか。
しかし、はっきり言いますが、そんな義を持っている人々はいずれ、揺り動かされるようになります。

 

聖書では、獣の国アメリカで、反キリストすなわち宗教の指導者が立てられることを語ります。

 

その下で、あらゆる背教へのいざない、恫喝、法律が制定されるはずです。
偽善の道を歩き、真に聖霊からの義を持っていない人は、揺り動かされるようになるでしょう。

 

正しいこと、義とは、単に人の目から見て良いことのみを行うことではありません。
そうではなくて、聖霊の語ること、導くこと、それが義であり、正しいことなのです。

 

店を構えている人のところへ行って乱暴狼藉を働くことは正しいことでしょうか?
台をひっくり返してしまったら?

 

勿論それは、よくないのです。一般的に言って。
しかし、いつもそうとは限らず、例外的に神が命じることがあります。
主イエスが宮の両替え人や物売りの台をひっくり返した時は、まさにその時であり、そのように、主は神の霊により、導かれたのです。

 

そして、主がそのようにしたことにより、私達は宮で両替えをすることについての神の怒りを理解出来たのです。

 

これは非常に例外的な話なのですが、しかし、それでも神の霊が主に語ったのなら、それが義であり、正しいことなのです。

 

”11 さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。

 

さばきについてもこの世において、誤解があるわけです。


その誤解とは?


それは、どんなものなのでしょう?
私が思うに、それは、この世を支配するものは無傷であり、やりたい放題、やっている、しかし、後の日に、いつか裁かれる、そんな誤解でしょうか。

 

しかし、その考えは、正しくないと主は言われているわけです。

 

事実はもう既にこの世を支配する者は裁かれている、その働きにも制限が与えられている、それが、聖書的に見て正しい理解なのです。

 

強い者、この世の君は既に裁かれているので、正しく対応するなら、その力はとどめられます。

 

悪い霊も追い出されるでしょうし、敵の働きも打ち砕かれます。

 

ただし、それは、私達が正しく歩めばのことです。
旧約の時代、イスラエル、ユダは、世界で唯一神の治める国でした。


そのことは本当です。

 

しかし、そうではあっても、いつも敵に勝利していたわけではなく、逆に、敵に倒されていく時もありました。

 

それは、不信の道を歩む時です。
不信の道を歩むとき、イスラエルはアッシリアに捕囚され、ユダは、バビロンに捕囚されていったのです。

 

しかし、そうであっても正しく歩むなら、敵、サタンの働きは制限されていること、彼は既に裁かれていることを見るのです。

 

私達はそれぞれ、あらゆる形で、敵の攻撃を受けています。ある人は罪の誘惑が断ち切れない、ある人は、悪い霊の働きで、体に変調がある、ある人は変な声が聞こえる、幻視が見える等、色々あるのです。

 

しかし、これらの攻撃をもたらす敵、サタン、この世の君は既に裁かれ、神の制限の下にあることを知りましょう。

 

何を言っているのかと言うと、私達が正しく対応するなら、この世の君のあらゆる攻撃は、消えていく、対抗出来ると言っているのです。

 

このことを知りましょう。

 

 

終末における主の御心を行いましょう。