No.659 神の子があらわれたのは悪魔のわざをこぼつため(2)

テキスト:1サムエル2612 こうしてダビデはサウルの枕もとの槍と水差しとを取り、ふたりは立ち去ったが、だれひとりとしてこれを見た者も、気づいた者も、目をさました者もなかった。主が彼らを深い眠りに陥れられたので、みな眠りこけていたからである。
13
ダビデは向こう側へ渡って行き、遠く離れた山の頂上に立った。彼らの間には、かなりの隔たりがあった。
14
そしてダビデは、兵士たちとネルの子アブネルに呼びかけて言った。「アブネル。返事をしろ。」アブネルは答えて言った。「王を呼びつけるおまえはだれだ。」
15
ダビデはアブネルに言った。「おまえは男ではないか。イスラエル中で、おまえに並ぶ者があろうか。おまえはなぜ、自分の主君である王を見張っていなかったのだ。兵士のひとりが、おまえの主君である王を殺しにはいり込んだのに。
16
おまえのやったことは良くない。主に誓って言うが、おまえたちは死に値する。おまえたちの主君、主に油そそがれた方を見張っていなかったからだ。今、王の枕もとにあった王の槍と水差しが、どこにあるか見てみよ。」
17
サウルは、それがダビデの声だとわかって言った。「わが子ダビデよ。これはおまえの声ではないか。」ダビデは答えた。「私の声です。王さま。」
18
そして言った。「なぜ、わが君はこのしもべのあとを追われるのですか。私が何をしたというのですか。私の手に、どんな悪があるというのですか。
19
王さま。どうか今、このしもべの言うことを聞いてください。もし私にはむかうようにあなたに誘いかけられたのが主であれば、主はあなたのささげ物を受け入れられるでしょう。しかし、それが人によるのであれば、主の前で彼らがのろわれますように。彼らはきょう、私を追い払って、主のゆずりの地にあずからせず、行ってほかの神々に仕えよ、と言っているからです。
20
どうか今、私が主の前から去って、この血を地面に流すことがありませんように。イスラエルの王が、山で、しゃこを追うように、一匹の蚤をねらって出て来られたからです。」
21
サウルは言った。「私は罪を犯した。わが子ダビデ。帰って来なさい。私はもう、おまえに害を加えない。きょう、私のいのちがおまえによって助けられたからだ。ほんとうに私は愚かなことをして、たいへんなまちがいを犯した。」
22
ダビデは答えて言った。「さあ、ここに王の槍があります。これを取りに、若者のひとりをよこしてください。
23
主は、おのおの、その人の正しさと真実に報いてくださいます。主はきょう、あなたを私の手に渡されましたが、私は、主に油そそがれた方に、この手を下したくはありませんでした。
24
きょう、私があなたのいのちをたいせつにしたように、主は私のいのちをたいせつにして、すべての苦しみから私を救い出してくださいます。」
25
サウルはダビデに言った。「わが子ダビデ。おまえに祝福があるように。おまえは多くのことをするだろうが、それはきっと成功しよう。」こうしてダビデは自分の旅を続け、サウルは自分の家へ帰って行った。

 

 

本日は、 神の子があらわれたのは悪魔のわざをこぼつため(2)としてメッセ−ジします。
この件を更に見ていきたいと思います。

 

テキストに沿って見ます。

 

”2 こうしてダビデはサウルの枕もとの槍と水差しとを取り、ふたりは立ち去ったが、だれひとりとしてこれを見た者も、気づいた者も、目をさました者もなかった。主が彼らを深い眠りに陥れられたので、みな眠りこけていたからである。

 

さて、ここでもダビデがサウルの「槍と水差し」とを取ったことが書かれています。
ですから、このこと、槍と水差しの事柄には大事な意味合いがあることが分かります。

 

そして槍と水差しを持った二人が、「立ち去ったが、だれひとりとしてこれを見た者も、気づいた者も、目をさました者もなかった」ことが描かれています。

 

これらの槍と水差しとは密かに持ち去られたのです。
このことは暗示的です。
御言葉も聖霊の働きも「ひそかに」持ち去られるものだからです。

 

神の御言葉、また教理は、敵に徐々にそして、密かに持ち去られます。
私がNIV訳聖書に関して驚いたのは、この聖書は名訳と言われるKJV訳に比べて何と6万語もの言葉が削除されていることです。

 

しかし、そんなことを教えてくれるキリスト教雑誌も新聞もありません。
確かに槍やら、剣で、たとえられる神の言葉は、密かに持ち去られることが分かります。
また教理もかなりおかしくなっているのですが、しかし、皆誰もこれに気付きません。

 

プロテスタント教会では、金科玉条の様に、艱難前携挙説が言われていますが、この教えも実は、もう敵に大事なところを持ち去られ、後に残ったゴミみたいな教理です。

 

艱難の前に教会は携え挙げられるなどとヨタ話を言う時点で、もうおかしいのです。
既に大事なところは敵に持ち去られています。

 

同じことは霊の面でも言えます。
聖霊の働きは、今は既に敵に持ち去られ、別のものになっていることを知るべきです。
もう終わりの時代に入ったと聖書は告げるのに、今迄と同じ調子で、キリスト教の集会へ出かけ、聖霊のように見える悪霊を受ける人は愚かな人々です。

 

誰も気付かないうちに既に水差し、聖霊の働きは取り去られていることを知るべきなのです。  

 

”13 ダビデは向こう側へ渡って行き、遠く離れた山の頂上に立った。彼らの間には、かなりの隔たりがあった。
14
そしてダビデは、兵士たちとネルの子アブネルに呼びかけて言った。「アブネル。返事をしろ。」アブネルは答えて言った。「王を呼びつけるおまえはだれだ。」
15
ダビデはアブネルに言った。「おまえは男ではないか。イスラエル中で、おまえに並ぶ者があろうか。おまえはなぜ、自分の主君である王を見張っていなかったのだ。兵士のひとりが、おまえの主君である王を殺しにはいり込んだのに。
16
おまえのやったことは良くない。主に誓って言うが、おまえたちは死に値する。おまえたちの主君、主に油そそがれた方を見張っていなかったからだ。今、王の枕もとにあった王の槍と水差しが、どこにあるか見てみよ。」

 

さて、このようにダビデは、敵の陣に入り込み、敵の持ち物を奪って去りました。
私達の主も、ただ、敵であるサタンに脅かされて歩んだというのではなく、逆に果敢にも敵の地の最も深い所へ下っていきました。

 

 

私達はその主の勝利の結果、素晴らしいものを受けているのです。
新約聖書の素晴らしい恵みの御言葉は、主が勝ち取った槍と言えます。
また、ペンテコステの日に下った聖霊は、主が勝ち取った水差しと言えるのです。

 

”17 サウルは、それがダビデの声だとわかって言った。「わが子ダビデよ。これはおまえの声ではないか。」ダビデは答えた。「私の声です。王さま。」
18
そして言った。「なぜ、わが君はこのしもべのあとを追われるのですか。私が何をしたというのですか。私の手に、どんな悪があるというのですか。
19
王さま。どうか今、このしもべの言うことを聞いてください。もし私にはむかうようにあなたに誘いかけられたのが主であれば、主はあなたのささげ物を受け入れられるでしょう。しかし、それが人によるのであれば、主の前で彼らがのろわれますように。彼らはきょう、私を追い払って、主のゆずりの地にあずからせず、行ってほかの神々に仕えよ、と言っているからです。
20
どうか今、私が主の前から去って、この血を地面に流すことがありませんように。イスラエルの王が、山で、しゃこを追うように、一匹の蚤をねらって出て来られたからです。」

 

この日、イスラエルの王、サウルは、たった一人の人、ダビデを狙って、多くの兵を引き連れ、直々に追跡を行ったのです。
一方、ダビデはイスラエルの町々を逃げ回りました。

 

この光景は艱難時代の型ではないかと私には思えます。
愚かな人が盲目的に信じている艱難前携挙説に従わず正しく聖書を読むなら、終末の日に神の御言葉に従う人々は、その御言葉の為に困難に会います。
そして、恐らくこのダビデの様に反キリストに追いかけられるのです。

 

しかし、その中でも神の特別な助けを受ける筈です。
このダビデが神により、守られ敵の手に渡されなかったように、その日、主につくクリスチャンは神の不思議な守りを見るようになるでしょう。

 

以下の言葉は、このこと、終末の日に弟子達が迫害を逃れて、イスラエルの町々を逃げ回る日のことを指します。  

 

マタイ1022 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。
23
彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい。というわけは、確かなことをあなたがたに告げるのですが、人の子が来るときまでに、あなたがたは決してイスラエルの町々を巡り尽くせないからです。

 

ここで言うイスラエルの町々とは新約でいうキリスト教会のことです。
「人の子が来るときまでに、あなたがたは決してイスラエルの町々を巡り尽くせない」とは、要するに、あちこち、逃げて、もう行くべき教団も教会も無い、ということが起きる前にキリストの再臨がある、だから恐れるな、そんな意味合いです。

 

”21 サウルは言った。「私は罪を犯した。わが子ダビデ。帰って来なさい。私はもう、おまえに害を加えない。きょう、私のいのちがおまえによって助けられたからだ。ほんとうに私は愚かなことをして、たいへんなまちがいを犯した。」


ここで、サウルは、自分の命が、ダビデによって、取られるところだった、しかし、危うく助けられた、そのことを自らの口で告白しています。

 

サタンに関しても同じであることを知りましょう。
実はサタンは、イエスにより、命を取られるところだった、しかし、憐れみにより、命を永らえている存在に過ぎません。

 

下記の言葉は、そのことを預言しています。

 

創世記315 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

 

悪魔が、その頭を女のすえである、主イエス・キリストにより踏み砕かれることは、前もって預言されているのです。  

 

”22 ダビデは答えて言った。「さあ、ここに王の槍があります。これを取りに、若者のひとりをよこしてください。

 

この時、一度は奪われたサウルの槍はサウルの元へ、再度返されました。
結果、槍はサウルのものとなったのです。
このことも暗示的です。
何故なら、教会に与えられた新約の御言葉も、敵の手に徐々に渡されていくからです。

 

終末の今、槍、御言葉は全く敵の手にあり、あらゆるガセ教理がめじろおしです。
いわく艱難前携挙説、ヨーロッパ獣の国説等です。

 

”23 主は、おのおの、その人の正しさと真実に報いてくださいます。主はきょう、あなたを私の手に渡されましたが、私は、主に油そそがれた方に、この手を下したくはありませんでした。

 

この日、ダビデは、ひとおもいにサウルを殺すことは出来たのですが、しかし、神の主権、神が油を注いで王としたという、その唯一の理由のために、彼を殺すことはしませんでした。

 

同じく、主イエスがサタンを即座に滅ぼさなかったのも、ただ、神の主権と方法を尊重したからなのです。
サタンは意味があって、その存在を永らえています。
その理由は終末の日の背信の人々への裁きの為なのです。

 

”24 きょう、私があなたのいのちをたいせつにしたように、主は私のいのちをたいせつにして、すべての苦しみから私を救い出してくださいます。」
25
サウルはダビデに言った。「わが子ダビデ。おまえに祝福があるように。おまえは多くのことをするだろうが、それはきっと成功しよう。」こうしてダビデは自分の旅を続け、サウルは自分の家へ帰って行った。

 

ダビデはサウルの下で、苦しみを経験しましたが、しかし、結局は命を助けられました。同じく私達も終末の日、神の民、すなわちキリスト教会を席巻するサタンの下で、苦しみを受けるでしょうが、しかし、結局は(永遠の)命を助けられます。
このことを知りましょう。

 

 

終末における主の御心を行いましょう。