”テキスト:黙示録3:7また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。”
本日は、真理により区分する(2)としてこの箇所を更に見ていきたいと思います。
かつて主は真理により、区分することを語りました。以下の通りです。
”ヨハネ17:17 真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。”
それで、真理により、クリスチャンを区分すること、正しく真理を知るクリスチャンとそうでないクリスチャンとの間に区分を設けることは主の御心、方法であることを知ります。
基本的には、全ての聖書に記された真理に関してこの区分があるのですが、しかし、この終末において、特にあの黙示録、難問のオンパレードのように見える、黙示録を通してこの区分が行われてしまう、このことを見ていきましょう。
黙示録は他の書と非常に異なった書です。
他の聖書の箇所、例えば、創世記とか、マタイの福音書とかは、非常に読み易く、一読すれば概ねの意味は掴めます。
また、人名、地名、時代等で曖昧な所はありません。
誰がどこで、いつ何をしたのか、はっきりとしているのです。
主イエスがどこで、生まれたのか、誰を親として生まれたのか、いつ生まれたのか、皆、はっきりとしているのです。
黙示録は謎の書です。また難問の書です。何もかも、はっきりしません。
千年王国は本当に文字どおり千年なのか?
2人の預言者とは誰か?7つの頭と10の角を持つ獣はどの国なのか?さっぱり分からないのです。
何故こうなっているのか?何故このような難解な書が終末に関して書かれているのか?
その理由は上記、真理によって、別つ、区分するという言葉と照らし合わせてみると分かります。
すなわち、黙示録、終末の預言の正解、真理を通して区分する、それが神の御心だからです。
区分された後、その運命は、どう分かれるかと言うと、天地ほども違う、結末に至ります。
かつての日、主の初臨の日がそうでした。
正しく、ナザレのイエスこそキリストであるとの真理を掴んだ人々は、神の祝福にあずかりましたが、その真理を掴まず、逆にイエス殺しに加わった人々は、裁きに入り、ローマのエルサレム攻撃の中で命を失ったのです。
黙示録を始めとした終末の預言を正しく捉えられるか否か、真理を掴むかどうかで、大きな差が出てくるようになるでしょう。
神は真剣にその真理による区分を考えており、だからこそ、終末に関して、難解な書、黙示録が与えられているのです。そのことを正しく捉えましょう。
終末における主の御心を行いましょう。