No.653 真理により区分する

テキスト:ヨハネ1716 わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。
17
真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。
18
あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。
19
わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。

 

本日は、「真理によって区分する」という題でメッセージしたいと思います。
テキストに沿って見ていきます。

 

”16 わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。

 

終末の日にはっきりしているのは、世は裁かれ、しかし、この世の者ではない、弟子達は逆に裁きから免れ、祝福を受けるということです。

 

世は裁かれると言う時、クリスチャンはこの世のものではないから、裁かれないと思うかも知れませんが、そうでもありません。
そうではなく、この世についたクリスチャン、エジプト化したクリスチャンは裁かれるのです。

 

かつて、出エジプトした時、イスラエル人は、安全に出エジプトし、しかし、彼らを追った、エジプト、パロの軍団は、紅海で滅ぼされました。

 

同じように、主イエス、12弟子たちを追い詰めた、この世についた、律法学者、パリサイ人たちは、その後、裁かれました。
紀元70年のエルサレム攻撃で皆、滅ぼされました。
エジプトへの裁きが、エジプト化した神の民に再現したのです。

 

更に黙示録は、このことが終末の日に再現することを暗示します。
「ソドムやエジプトと呼ばれる都」とはそのエジプト化した教会のたとえです。

 

私達はこの終末において、再度、世との関係を見直すべきであると、私は思っています。ヨハネも世をも世にあるものをも愛してはならないことを宣べます。

 

1ヨハネ215 世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。
16
すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。
17
世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。

 

私達がこの世の方法、考え、テレビ、新聞、映画、雑誌、そんなもののみに囲まれているなら、いずれ、世に巻き込まれていくでしょう。
それらは、多少用いることはあっても、「世を用いるものは用い過ぎないよう」気を付けるべきです。

 

”17 真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。

 

さて、この言葉です。


ここでは、別つこと、すなわち、分離すること、そしてそれを、真理を通して行うことが書いてあります。
これは一体どういう意味なのでしょうか?

 

こんな風に私は思います。
それは、主は神の民の分離、分別、選びを行いたい、そしてそれを「真理」を通して行いたい、そういっているように思えます。  

 

真理を通して分離、選ぶとは具体的には、どういうことなのでしょうか?
それは、ある人は真理、本物を選ぶ、しかし、他の人は真理、本物を選ばない、そういう区分なのでしょう。

 

主イエスの時は、まさにそのような時、真理がこの世に来て、そしてその真理を受け入れるかどうかで、
多くの人が区分されてしまった時なのです。

 

ダビデの家系に生まれ、旅先のベツレヘムで生まれ、神の小羊として、贖いを成し遂げたナザレのイエスは、まさに真理、本物だったのです。しかし、多くの人は彼を本物、真理であると判断せず、結果、自分達を神に裁かれる者として「区分」してしまいました。
特に聖書の専門家である律法学者、宗教の専門家である祭司等が、大いに間違えたのです。

 

しかし、ナザレというメシヤとは何の関係もなさそうな町出身、しかも、イスラエルの王、王族とは関係の無い、ただの大工出身のイエスをつぶさに見、この方にこそ、真理がある、神の子であると判断した人々もいます。
すなわち、シモンペテロ、ヨハネ、ナタナエルなどの弟子達です。

 

彼を正しく認めた人は少なく、誤解した人は多かったのですが、しかし、その裏には意図、神の意図があったこと、それは、真理を通して、神の民に区分を行う意図があったこと、計画があったこと、このことを正しく正しく知るべきです。

 

大学の試験が「正解」を書けるか書けないかで、区分されてしまうように、その時も神の民は、「真理」を悟れるかどうかで、区分されてしまったのです。
そして、その区分は明らかに、それぞれの人々が見えない神の前に正しく歩んでいたかどうかにかかっていました。白く塗られた墓のように、偽善的な歩みをしていた律法学者、パリサイ人は、見事に真理を悟れず、区分されてしまったのです。
逆に神の前に真に正しい歩みをしていた、ペテロ、ヨハネ、ナタナエルなどは、若干の誤解があっても結論としては、正しくこの方、真理を知ることが出来ました。

 

ここに、真理による区分は明らかに行われたのです。
上記、主の言葉、「真理により聖め別つ」、すなわち、真理による区分は確かにその日、行われたのです。
この真理による区分は長い教会時代、ずっと行われてきました。

 

ルターが信仰義人の真理を見た時、しかし、それを見ない多くの人からは反対されたのです。
ここでも区分があったわけです。

 

さて、終末の日も真理による区分、より分け、分別が行われるその日であることを知りましょう。

 

特に終末の教理に関して多くの議論がありますが、これは、他でもない、真理による区分を行うために用意されたものであることを知りましょう。

 

難しい大学に入る為には、多くの科目を受験しなければなりません。
国語、算数(数学?)、理科、社会、沢山科目があり、沢山問題があるのです。

 

最初に出てきた、「枕の草子を書いた人物名を書け」との問題に正しく正解出来たとしても、それで終わり、合格というわけにはいきません。

 

難しい数学も、それから、ちょっと苦手な理科も、あまり勉強していない社会もそれから英語の問題だって解かないと学校へは入れないのです。
難しい問題、ひっかけ問題がめじろ押しなのです。

 

さて、難関大学に入るのも難しいのでしょうが、終末の日の真理を悟ることは、もしかすると、もっと難しいのではないか、と私は思っています。

 

あの全聖書中、最後の難関、難問、黙示録の全ての問題を正しく解き明かし、正解を出すことなど、ほとんど不可能に思えます。

 

この難問集の一つ、2つの問題は解けても全問正解は難しい、それは、かなり難しいのだろうと思っています。

 

しかし、主が真理による区分について語ったなら、それは必ず行われるはずです。
このことは真面目に考えなければなりません。

 

たとえば有名な「荒らす憎むべきもの」の解釈があります。
多くの人は、ほとんど何も考えず、「これはエルサレムの第三神殿にささげられる冒涜のささげもの」などという何の芸も、熟慮もないベタな解釈を鵜呑みにしています。
エルサレムで第三神殿建設の用意がある、なんて、ガセみたいな情報も入ってきます。
しかし、本当にそうか?わざわざ聖書にこの箇所に関して、「読者よ悟れ」とまで、書いてあるのに、他の考えを考慮しなくてよいのか?

 

ここでも真理による区分がありそうです。

 

他にも終末に関連して沢山の難問があります。
終末の獣の国はどこなのか?ハル・リンゼイや、レフトビハインドが言うように、ヨーロッパが獣の国になるのか?はたまた、ローマ帝国が復活する、なんて言う人もいますが、それは本当か?

 

バビロン、メディアペルシャ、ギリシャ各世界帝国に連なる現代の世界帝国、支配国は明らかにアメリカ以外無いように見えるのですが、この国を理由もなく度外視して、大丈夫なのか?
むしろ、アメリカに目を留めるべきではないのか?

 

ここでも真理による区分があるように見えます。

 

これらのことは終末のことですが、それ以外の多くの聖書の教理に関しても、区分があるのです。いわく、セカンドチャンスがあるのか、無いのか。いわく、クリスチャンも終末の日に裁かれるのか否か。

 

”18 あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。

 

主から真理を受け、弟子はその真理を世に語ったのですが、しかし、全ての人がそれを受け入れるわけではありません。

 

弟子の語った、再臨だの終末だの、もう、まともに相手にしていない教会も日本には多いようです。今はまさに終末であり、これから、反キリストがいよいよ立つという、大変な時、それなのに、誰も今が終末と認識しないとは、一体どうなっているのか?
そうです、ここでも真理による区分があるのです。

 

今の時代も主の弟子は終末に関する真理を語るでしょうが、皆がそれに耳を傾けるわけではありません。話半分と思う人もいるでしょうし、場合によっては自分の意見と違うから、なんて理由で、反発してくる人もいるかも知れません。

 

しかし、もし主が遣わされたなら、弟子は語るべきことを語らなければなりません。語っても真に受けない、受ける、その結果はそれぞれの人が刈り取るのでしょうが、しかし、語るよう、任じられたら語るべきなのです。

 

”19 わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。

 

 

ここでも、聖め別つ、すなわち、区分について書いてあります。
ですから、聖書の語る、キリスト教の一面、区分ということに関して正しく目を開かれるべきです。

 

聖書は明らかに区分、選び、選別ということを繰り返し繰り返し語っています。
愚かな花嫁と賢い花嫁も区分の話です。
すなわち、花嫁であるべきクリスチャンの中にも、区分があり、ある人々はその日、主に受け入れられるが、他の人々は拒絶されてしまう、これがこの話の主旨なのです。
マタイ13章の麦と毒麦の話、また良い魚と悪い魚、これも同じく区分に関する話です。

 

聖書が明らかに語る一つの明確な教理は、クリスチャンの間に区分があること、そのことです。
根拠もなく、全てのクリスチャンが神に受け入れられると、思い込んではいけないのです。

 

多くのクリスチャンは、多くの真理を取り違え、結果、本来あるべき所に到達することが出来ず、全然間違った所に落ち着いているのです。

 

最初の角を左へ曲がると書いてあるところを右と読み、まっすぐ進んで、銀行の角を曲がると書いてあるのをお寺の角を曲がり、結果、本来到着すべき、太平洋の海岸に着くべきところを、小さな池に辿り着き、「これが太平洋か、思ったより、小さいな」などと納得している有様です。

 

獣の国がヨーロッパで、反キリストがヨーロッパを治める政治指導者だなどと、思い込んでいる人々がその池を、太平洋と思い込んでいる愚かな人々です。

 

しかし、彼らが間違えようと、間違えまいと時は冷徹に過ぎ去り、いずれ、獣の国、アメリカで、宗教指導者、反キリストが立つとのことです。

 

そろそろ真理に立ち返り、真実を見る時が来ていることを知りましょう。

 

 

終末における主の御心を行いましょう。