NO. 652 知る

”テキスト:ヨハネ16:1 これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。
2 人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。
3 彼らがこういうことを行なうのは、父をもわたしをも知らないからです。”
 

本日は、「知る」という題でメッセージしたいと思います。
聖書の一つのパターンとして、簡単なことばに深い意味合いを持たせる、そんな方法があります。
たとえば、見る、聞くということばもそうです。
あの盲人バルテロマイの箇所で、私達は「見る」ということばに
関するもう少し深い意味合いを知ることができました。

同じ意味合いで「知る」ということばにも、聖書は、単に表面的に顔見知り、知人というよりも
さらに深い意味合いで語っていることを見たいと思うのです。

テキストに沿ってみていきます。

”1 これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。”

終末の日に弟子であるクリスチャン達がつまずく、もしくはつまずきそうになることが
あります。それは何故か?
 


2 人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。”

それは他でもない教会から、教会の会堂から追い出される日が来るからです。
正しく神のことばを行い主に忠実であるがゆえに、キリスト教会から追い出されるという
悪夢のような日が来るからです。それどころか、あいつらはカルトだ、死刑に処した
方がよい、キリストもそれを望んでいる、などと呼ばわって私達の
命をねらう人々が教会にあらわれるからです。
あらわれるどころか、そんな人の意見が大多数という日が来るからです。

そんな日をまじかにしたら、私達はどう思うでしょうか?
「神を愛し、キリストを愛し、そのことばを忠実に行ってきたのに、何故、
このように憎まれなければならないのか?
私は神に憎まれているのか?キリストは私を見捨てたのではないのか?」

そんな誤った思いに捕らえられないように、この日は前もって語られているのです。
そのような日は来るがそれは、神が我々を見捨てたのでも、キリストが無力なのでもなく、
しかし、書かれたことが起きたにすぎない、
いずれ、真の救い主であるキリストがやってくる、そのことを知るべく、
このことは前もって語られているのです。

はっきり知らなければならないのは、その迫害は未信者からではなく、
しかし、兄弟姉妹であるはずの同信のクリスチャンから来るのです。
だからこそ、つまずかないよう、語られているのです。

さらにまた、単に迫害されるだけでなく、これらのカルト、反対者を
殺すことはキリストのため、神のためという、惑わしが行われることを
正しく知りましょう。
命を失う人々も起こるでしょう。

青少年を煽って、「神の敵、キリストの敵を滅ぼせ」と語る、ヨエルの軍隊のように、
おかしな扇動ムーブメントがキリスト教会の中で、大きくなるでしょう。
その数は驚くべき数に達し、その総数まで聖書に記されています。
黙示録9章に記されている2億のいなごの軍隊がそれです。

”3 彼らがこういうことを行なうのは、父をもわたしをも知らないからです。”
 

さて、終末の日にこのようなこと、一方のクリスチャンがおかしくなり、
自分の兄弟を売ったり、死に渡しても正しいと誤った確信を持つようになる、
その理由は、その人々が、「父をもわたしをも知らないから」であると語られています。

ですから、これから終末に向かって我々が単にクリスチャンであるだけではなく、
我々が真に神を、またキリストを知っているかどうかが決定的な
区分をもたらすということを知りましょう。

知るということばは、創世記の「アダム をイブを知った」という
表現で使われているのと同じことばです。
この場合、夫婦関係を持つ、男女関係を持つことをあらわします。
すなわち、単に顔見知りの女性とか、名前だけ知っているクラスメートというより、
さらに深い意味合いでアダムは
 イブを知った、そう暗示されているのです。

私達もこのような意味合いで、神をまた、キリストを「知る」べきなのです。
何故なら、そうでないと惑わされてしまい、間違えてしまう日が来るからです。

主イエスの時代にも、自分では宗教の専門家、神や聖書のことなら何でも知っている、
つもりなのに、その実、神を「知らない」人々が出てきます。

それは、パリサイ人や律法学者達です。彼らは真の意味で神を知らず、その結果、
神のみこころと全く反対のことをしゃかりきに熱心に行っていました。
そして、神のため、聖書の教えに従うためと心から思い込んで、「安息日を守らず、
神を冒涜する、偽メシヤである」ナザレの イエスを十字架につけて殺したのです。

彼らの失敗はとてつもない間違い、サッカーでいうオウンゴール、自陣にゴールを
入れるようなもの、軍隊でいえば、敵ならぬ、味方の兵を撃つ様なもの、
全くの見当違いなのです。

しかし、このことはまさに行われ、このことは、歴史的事実なのです。
 

かつて書かれたことは、今の私達、終末に臨む私達への教訓です。この愚かで神を知らない、
律法学者達、パリサイ人達の失敗は再度終末の日に繰り返されることをはっきりとはっきりと知らなければなりません。
 

すなわち、なるほど、聖書のことは知識として知っているのでしょうが、
しかし、神は「知らない」、キリストも「知らない」人たちが私達の敵となるのです。

そのような人々がもう既に何か自分は正統なクリスチャンです、をきどって、自分も
よく知らない人々のことをカルト化だとか、異端だとか、決めつけつつあります。

ささいなことは目くじらを立てるようですが、最悪の異端、ガザへの空爆の根拠となる破壊経典、
最悪のカルト経典、ユダヤタルムードのことはおとがめなしのようです。
 

殺人カルトは見のがし、ささいなことには、目くじらをたてる、
聖書でいう「ぶよはこし、らくだは飲み込む」偽善者の典型です。

このようなカルト刈りに狂奔しているあほたれ偽善者どもこそが、終末の日の
律法学者、パリサイ人であり、彼らを通して、再度、主につく義人達は、カルト扱いされ、
迫害されるのです。

繰り返しますが、終末の日、真にキリストを知っているか、いないかが
決定的な区分をもたらす日が来ます。
 

聖書的な意味合いでは、キリストを「知らず」神も「知らない」のに、
自分の常識に従い、この世の常識、獣の国、アメリカのカルト規制に盲従し、
自分の兄弟達を訴え、カルト扱いを行い極め付けのあほたれ、蛇、まむしのすえである、
律法学者と同じくゲヘナ確定の愚か者がいつの日か、この日本にも現れてくるでしょう。

彼らは聖書読みの聖書知らずの愚か者であり、イスカリオテの ユダと同じく滅びの
子です。彼らは生まれなかった方が良かった、なまじ、新生した
クリスチャンなどにならず、おとなしくしていた方がよかったのでしょう。
しかし、悲しいかな、彼らへの裁きはゲヘナの火で
あり、このことは確定した事実であることを正しく知りましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
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