No.651 賢い娘、愚かな娘

マタイ251 そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
2
そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
3
愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。
4
賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。
5
花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
6
ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。
7
娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
8
ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
9
しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
10
そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
11
そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。
12
しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。
13
だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。

 

本日は、「賢い娘、愚かな娘」との題でメッセージをします。
テキストに沿って見ていきます。

 

”1 そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。

 

ここでは、天の御国のことが描かれています。
私達クリスチャンは、旅人であり、この世に安住する者ではない、逆に入るべき国、天の御国に入ることを目指す者であることを知りましょう。
ヘブル書に書かれている、地上の寄留者、彼らが天の都に入るのです。

 

ヘブル1113 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
14
彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
15
もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
16
しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

 

彼らが天の御国に入ったその理由は、「地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」との言葉通り、この世の者ではないことを告白、宣言していたからなのです。

 

逆に全くこの世の者となりきった人々は天の御国に入ることがおぼつかない、危ない、このことをも
覚えていきましょう。

 

黙示録には、「地に住む者」daweller,この世の定住者、この地に根っこをはったかのような人々について書かれています。そんな人々は、恐らく天の御国に入らないでしょう。
テレビ、映画、音楽、小説、あらゆるものが私達をこの世にいざなうのでしょうが、惑わされてはいけません。「この世を用い過ぎない」ことを学ばなければなりません。

 

この世につく人の例として、エキュメニカルムーブメントを受け入れる人々はその筆頭です。
エキュメニカルという言葉は黙示録の中のoikoumene「世界」という言葉から取られています。


以下の箇所です。

 

「黙示録1614 彼らはしるしを行なう悪霊どもの霊である。彼らは、全世界の王たちのところに出て行く。万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。」

 

この箇所から、明確に彼らすなわちエキュメニカルの連中は裁かれる対象であることが分かります。

 

これからの宗教界は、宗教的な非寛容はいけない、原理主義者すなわち、自分の教理に拘泥するのはよくない、しかし、カソリックもプロテスタントも共に手を携えるのが正しいなんて、ヨタ理論が大勢を占めるようになるでしょう。
このことを覚えておいてください。必ずその日は来ます。
しかし、それは巧妙にこの世の君、すなわち、サタンが仕組んだ罠の日、すなわち、より分けの日であり、この世の寄留者であるべきクリスチャンを皆まとめて、地上の者、定住者とする日、天の御国と無縁にさせる日なのです。

 

こんなヨタ話に惑わされ、脅かされて永遠の悔いを残さないよう、今から備えるべきです。

 

”2 そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。

 

さて、同じ花嫁の中でも半分の五人は、愚かで正しく花婿を迎えられなかった、しかし、残りの五人は、賢くて、正しく花婿を迎えられました。

 

ですから、花嫁には2種類の結末があるわけです。
花嫁とは、キリストの妻となるという意味合いでのクリスチャンのたとえです。
そのクリスチャンには、2種類の区分がある、このことは正しく知りましょう。

 

このこと、クリスチャンには、キリストに受け入れられるクリスチャンとそうでないクリスチャンとがあることは、何度も何度も聖書が語っていることです。

 

すなわち、マタイ13章に書かれているように、倉に入れられる麦と、火で焼かれる麦、はたまた、取り入れられる魚と火で焼かれる魚等です。
麦は御言葉を受けて成長するものとしてのクリスチャンのたとえ、また魚は水、聖霊の中で育つ存在としてのクリスチャンのたとえです。決して、決してクリスチャンと未信者との区分を言っているのではないのです。惑わされてはいけません。

 

”3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。

 

この愚かな娘達の問題は、「ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった」ことにあります。


ともしびのたとえの意味合いは何でしょう。
世の光、灯としてのキリストのたとえでしょうか。


油は聖霊のたとえです。


ですから、この愚かな娘が指す問題とは、ともしび、すなわち世の光である、キリストを信じている、しかし、聖霊を持っていない、このことになります。

 

クリスチャンでも聖霊を持っていない、このことはあり得るのかと言うとあり得ます。
私達は日々、聖霊を受けられるよう、求めるべきです。
聖霊を求めることは、聖書では、水を求めることとにたとえられます。


そして、水を求めることは今と異なり、昔は重労働でした。カナの婚姻では、6つの水がめに水を満たすしもべのことが書かれていますが、しかし、これは大変そうな作業です。また、アブラハム、イサクの時代に井戸を掘り、水を得ることが書かれていますが、これも重労働です。

 

今の時代も水、聖霊を求めることには労働がつきものであり、祈り、何時間かの祈りが伴います。

 

”4 賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。

 

賢い娘達の成功の秘訣は単にキリストを信じるクリスチャンであるにとどまらず、油を持っていた、祈りの中で聖霊に触れていたことにあります。

 

”5 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。

 

来るのが遅い花婿とは、明らかに再臨のキリストを指します。
主が再臨する頃のキリスト教会の問題とは、皆、眠ってしまうことです。
眠るとはたとえであり、罪に陥ることを指します。以下の通りです。

 

エペソ514「明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」

 

次をみます。

 

”6 ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。
7
娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
8
ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』

 

さて、このキリストが再臨した時、愚かな娘達のともしびは油が無いため、消えそうになっていました。
ともしびが消えそうとは、具体的には聖霊に触れていないため、少し風が吹いたらキリストへの信仰など吹き飛びそうなクリスチャンの状態を指します。

 

この言葉は非常に暗示的です。
この愚かな女達とは具体的には、主の言葉を軽んじ、浮かれ、世のことに時間もエネルギーも費やし、
結果、主の日の試みに耐えることの出来ないクリスチャンを指します。

 

これらの愚かな女、すなわち、結婚式に招待されているのに、備えが無いために、花婿に会えなかった愚かな女は私達と遠い存在ではありません。

 

この「愚かな」女は以下の愚かな人に相通じます。

 

マタイ726 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
27
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」

 

ここでの愚かな人は、岩ではなく、砂すなわち、弟子の歩みではなく、群集の歩みをする人々です。そして、御言葉を行わないクリスチャンです。
彼ら、群集も弟子も平時には、同じクリスチャンとしか見えません。
逆に群集の歩みをしている人の方が、この世の知識に富んでいたり、平時には立派なクリスチャンのように見えるかも知れません。

 

自分のこともよく分からず、カルト化カルト化なんて他人に余計な世話を焼いているかも知れません。
しかし、その日の雨、洪水、風がその人の真の状態を明らかにしてしまいます。

 

雨、洪水は、霊的なものをあらわすのでしょう。群集の歩みをしているなら、霊の惑わしが来たとき、平時の偉そうな講釈など何の意味も無く、惑わされていくのです。

 

その良い例は、主イエスの時のことです。
ほんの一週間程前には、「ダビデの子にホサナ」とイエスを熱狂的に歓迎していたエルサレムの群集は、惑わしの霊が来た時、それに対抗出来ませんでした。

 

惑わしの霊は、「お前達が歓迎したあのイエスは実はとんでもないカルトだ。お前達は惑わされていたのだ」と語ったのですが、それに対抗できる群集は、殆どいませんでした。
皆、心を一つにして、「イエスを十字架につけろ」と悪の霊に影響され、叫んでいたのです。
彼ら、神の民はこのように惑わされたのです。このことを他人事と思ってはいけません。
同じ群集への惑わしが終末の日に起きるでしょう。

 

さて、群集とは逆に、弟子達は世間のキリストへの評価が変わろうと変わるまいと、その歩みは変わりませんでした。

 

洪水が来ても岩の上に建てた家は倒れなかったのです。
風が家に吹くとのことですが、この風という言葉はエペソ書の「教えの風」と同じ原語です。

 

ですから、群集の歩みをしていると、教えの風に惑わされていくのです。
パーパス・ドリブン・チャーチ、すなわち目的主導型教会に惑わされたりするわけです。

 

「私たちのともしびは消えそうです。」

 

この言葉は非常に暗示的です。上記箇所では、花婿が来るまさにその時、すなわち再臨の時、肝心の花嫁のともしびが消えそう、そんなことが起きると言うのです。

 

これは、真理の光である、キリスト、そのお方の存在が花嫁、クリスチャンから消え去っていく、そう理解出来ます。

 

今の時代、多くのクリスチャンは、弟子の歩みをしておらず、この世と大差ない、吹けば飛ぶ様な、火もともしびもすぐ消えそうな歩みをしています。
彼らは、これから起きる艱難の時を経るうち、ついには、ともしびを消す、すなわち、キリストへの信仰も失うようになるでしょう。
あのイエスの時の群集の姿、「十字架につけろ」と絶叫する、惑わされた姿は再現するでしょう。聞く耳のある人は聞いてください。  

 

”9 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
10
そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。

 

愚かな娘達が油を買いに行った、まさにその時、花婿が来て、その後、戸は閉められてしまいました。
何と、間が悪いのでしょうか。
自分はそんなドジはしないと思っている人々も多いかも知れませんが、この愚かな娘達のことを他人事と思うべきではありません。

 

ここでのポイントは、「用意のできていた娘たち」との言葉と思われます。
私は痛切に今、用意が出来ていなければならないと思います。今、主の勧められた弟子の歩みに入るべきと思っています。繰り返します。群集の歩みでは、危ないと聖書が語っているように思うからです。

 

聖書の御言葉によるなら、艱難時代は、やがて到来します。

 

いつまでも愚かな娘、フラフラした群集の歩みをしている時代ではないのです。

私は、ほんの数人の人々とですが、既に弟子の歩みに入っています。

 

「戸がしめられた」

 

この表現は、あのノアの箱舟の話で、全て入るべき人が入った後、箱舟の戸が閉められたこと、また、滅ぼされるソドム、ゴモラの町で、唯一助け出されたロトの家の戸が閉められたことに通じます。
ですから、暗示されていることはこのことです。
すなわち、私達が愚かな花嫁となるなら、ノアの日に洪水に会った人々、またロトの日に火で焼かれたソドム、ゴモラと同じ運命に会う、このことです。

 

”11 そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。
12
しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。

 

ここでは大変恐ろしいことが書かれています。
花嫁が婚姻の席に向かったのに、あろうことか、その相手である花婿から、「私はあなたを知らない」と言われてしまったというのです。

 

そんな馬鹿なと思うのですが、そう書かれているので否定出来ません。
上記箇所には「ご主人さま、ご主人さま。」と書かれていますが、これは、主よ主よという言葉であり、他でもない、その日、備えの出来た花嫁のつもりである、クリスチャンが自分が主と呼んでいるキリストから


「私はあなたを知らない」と言われてしまう、そうこの箇所は言っているのです。

 

異論のある人もいるかも知れませんが、私にはこの箇所は、そうとしか読めません。
この両者間の大変な意識のギャップ、食い違いを、よくよく理解すべきです。
片方の花嫁の方は、自分は花嫁たるにふさわしい、花婿は喜んで自分を迎えてくれる、そう確信し、いさんで式場に出掛けたのにあろうことか、相手の花婿から、「私は貴方を知らない」と言われたのでは、まるで喜劇みたいなものです。

 

しかし、聖書はジョーク集ではなく、実際に我々の身に起こることを警告している書です。
他人事と思わず、警戒しなければなりません。

 

 

この勘違いの花嫁、自分では、よく花婿を知っていると思い込んでいたのに、あろうことか、結婚式のその日に「あなたを知らない」と言われた花嫁は、他でもない、主に知らないと言われる再臨の日のクリスチャンのたとえです。

 

「知る」という言葉にも少し隠れた意味合いがあります。


この言葉は、創世記の中で、「アダムはエバを知った」という表現に使われている言葉です。要するに夫婦の男女関係について使われている言葉なのです。
ですから、単に「顔見知りの近所の主婦」とか、「名前を知っているクラスメート」という意味合いより、深い意味合いで「知る」ことを語っているのです。

 

花婿であるキリストがクリスチャンと名が付く人々をその日、「私はあなたを知らない」という時、このような深い意味合いで知らないということを語っているのです。

 

それで、今の時代、私達が主を「知る」ことがいかに大事なことでしょうか。
私達が祈るために時間を使い、聖書を読むことに時間を使い、また主の言われたことを行う、それらが主を知ることに通じます。

 

”13 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。 

 

終末の日なのです。目を覚まし、正しい歩みをすることがいかに大事なことか知りましょう。

 

 

終末における主の御心を行いましょう。