NO. 648 賢い妻と愚かな夫 その2

テキスト:
1サムエル25:
10 ナバルはダビデの家来たちに答えて言った。「ダビデとは、いったい何者だ。エッサイの子とは、いったい何者だ。このごろは、主人のところを脱走する奴隷が多くなっている。
11 私のパンと私の水、それに羊の毛の刈り取りの祝いのためにほふったこの肉を取って、どこから来たかもわからない者どもに、くれてやらなければならないのか。」
12 それでダビデの若者たちは、もと来た道を引き返し、戻って来て、これら一部始終をダビデに報告した。
13 ダビデが部下に「めいめい自分の剣を身につけよ。」と命じたので、みな剣を身につけた。ダビデも剣を身につけた。四百人ほどの者がダビデについて上って行き、二百人は荷物のところにとどまった。
14 そのとき、ナバルの妻アビガイルに、若者のひとりが告げて言った。「ダビデが私たちの主人にあいさつをするために、荒野から使者たちを送ったのに、ご主人は彼らをののしりました。
15 あの人たちは私たちにたいへん良くしてくれたのです。私たちは恥ずかしい思いをさせられたこともなく、私たちが彼らと野でいっしょにいて行動を共にしていた間中、何もなくしませんでした。
16 私たちが彼らといっしょに羊を飼っている間は、昼も夜も、あの人たちは私たちのために城壁となってくれました。
17 今、あなたはどうすればよいか、よくわきまえてください。わざわいが私たちの主人と、その一家に及ぶことは、もう、はっきりしています。ご主人はよこしまな者ですから、だれも話したがらないのです。」”
 

本日は、「賢い妻と愚かな夫 その2」としてこの件をさらに見ていきたいと思います。

テキストに沿ってみていきます。

”10 ナバルはダビデの家来たちに答えて言った。「ダビデとは、いったい何者だ。エッサイの子とは、いったい何者だ。このごろは、主人のところを脱走する奴隷が多くなっている。

ナバルはこれから王となるダビデに対して正しく対応しませんでした。
結果、後で災いを見るようになります。
このことは、主イエスの時代の時、再現します。
人々は、ナザレのイエスをキリストであると認めず、十字架で殺し、結果、滅びを招きました。

このことは、終末の日に再現するでしょう。すなわち、聖霊に油注がれた人々をそれと気付かず、正しく
対応せず結果として裁きに入る人々が起きるでしょう。

”11 私のパンと私の水、それに羊の毛の刈り取りの祝いのためにほふったこの肉を取って、どこから来たかもわからない者どもに、くれてやらなければならないのか。」”

ナバルはこのように語り、ダビデに自分のパンも水も提供することを拒みました。
けちだからしょうがないともいえますが、しかし、このこと、彼が拒否したことは、重大な
結果をもたらし、彼は神にさばかれ、死んでしまったのです。

ダビデの申し出を断わっただけで、死の罰?
あまりにも厳しい処置と思われるかもしれませんが、このことを通して神が
語っていることがあります。
 
 

それは、キリストが再臨する時、私達は彼にパン、水を提供するべきであるということです。
もし、そうしないなら、命、永遠の命を失う可能性もあることをこの箇所は語るのです。
 

パンはみことば、それに伴うメッセージ、教理のたとえです。また、水は聖霊のたとえです。
どこの教会にもパン、メッセージ、教理があるのだから、それで良いではないか、
何の不満があるのか、という意見もあるかもしれませんが、問題はそのパンは、
キリストに捧げられているのかどうかということです。パンがあれば、よいというものではないのです。
 

パン、ささげものが、名目、キリストへ、実質、悪霊へ捧げられているということは、
往々にしてあることなのです。
だからこそ、聖書は以下の様に語るのです。

”1コリント10:
19 私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。
20 いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。
21 あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。
22 それとも、私たちは主のねたみを引き起こそうとするのですか。まさか、私たちが主よりも強いことはないでしょう。”
 

JNダービーや、ウオッチマンニーが立派な器かどうか知りませんが、しかし、
彼らを偶像視して、聖書の教えを捨て去り、そのようなメッセージをするなら、それは、

偶像の神に捧げたパン、水であり、神の前に捧げるものとは異なります。
たとえば、彼らの唱えた艱難前携挙説をしゃかりきに礼拝で唱えるなら、
それは、ダビデ、すなわちキリストの前にささげたパンでも水でもないのです。

それが、すなわち、あの愚か者ナバルの罪、ダビデ、すなわちキリストにパンも水も
提供しなかった罪であるということを正しく正しく知るべきです。

ダビデに何らのパンも水も与えなかった愚かなナバルは今の我々と決して無縁ではありません。
そう見えるのは見るには見ず、目があっても見えないからです。

今の時代は多くのナバル、愚か者に満ちており、キリストと何の関係もない、
妄想教理を語る人々が多いのです。リックジョイナー、ベニーヒンなどが垂れ流す
よた話、悪霊リバイバルはキリストとは何の関係もなく、ただ悪霊やベリアルと関係があるものです。
そんなものを真に受けて、説教で語っている愚かな人々はまさに現代のナバルなのです。

12 それでダビデの若者たちは、もと来た道を引き返し、戻って来て、これら一部始終をダビデに報告した。
13 ダビデが部下に「めいめい自分の剣を身につけよ。」と命じたので、みな剣を身につけた。ダビデも剣を身につけた。四百人ほどの者がダビデについて上って行き、二百人は荷物のところにとどまった。”

ダビデには何もあげるものはないと語ったナバルを滅ぼすべく、ダビデは剣を持って、下る決心をしました。この類いのことがらは聖書の中で、何度も預言されている事柄です。
たとえば以下です。
 

”マタイ21:33 もう一つのたとえを聞きなさい。ひとりの、家の主人がいた。彼はぶどう園を造って、垣を巡らし、その中に酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。
34 さて、収穫の時が近づいたので、主人は自分の分を受け取ろうとして、農夫たちのところへしもべたちを遣わした。
35 すると、農夫たちは、そのしもべたちをつかまえて、ひとりは袋だたきにし、もうひとりは殺し、もうひとりは石で打った。
36 そこでもう一度、前よりももっと多くの別のしもべたちを遣わしたが、やはり同じような扱いをした。
37 しかし、そのあと、その主人は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、息子を遣わした。
38 すると、農夫たちは、その子を見て、こう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。』
39 そして、彼をつかまえて、ぶどう園の外に追い出して殺してしまった。
40 このばあい、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう。」
41 彼らはイエスに言った。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」”
 

このぶどう園のたとえでは、「主人は自分の分を受け取ろうとして、農夫たちのところへしもべたちを遣わした。」ことが書かれています。

そして、何もわたそうとせず、逆にしもべ達をたたいたり、殺したりした農夫達が
滅ぼされることが描かれています。
これは、まさにナバルの例と同じことがらなのです。

私達、教会の働き人は農夫であり、ぶどう園は神のものであり、私達はそこで、
育つぶどうを神にささげる義務を負うものです。

”14 そのとき、ナバルの妻アビガイルに、若者のひとりが告げて言った。「ダビデが私たちの主人にあいさつをするために、荒野から使者たちを送ったのに、ご主人は彼らをののしりました。”

この時、ナバルはダビデのつかいをののしりました。
これは、彼に最後には死をもたらしました。
ですから、終末の日に主から来た使いをどのように
見分けるかが大きなポイントです。しかし、残念ながら、終末の日は、
惑わしと偽りの日であり、これらの使いはカルト扱いされるようになるでしょう。

”15 あの人たちは私たちにたいへん良くしてくれたのです。私たちは恥ずかしい思いをさせられたこともなく、私たちが彼らと野でいっしょにいて行動を共にしていた間中、何もなくしませんでした。
16 私たちが彼らといっしょに羊を飼っている間は、昼も夜も、あの人たちは私たちのために城壁となってくれました。”
 

野にいる間、牧者である若者達は、彼ダビデに助けられ、彼、ダビデが、城壁となり、
守りとなったことが書かれています。

これは、牧者である、働き人を守るキリストの働きのたとえです。
私達が、教会でメッセージをする、そのうまくもない話を聞いて人々が感動する、
また、すごい牧師さんだと感激する、それは、
他でもない目に見えないキリストの守り、助けがあるからなのです。
守り、助けは神から、キリストから来るものです。
だからこそ、私達の様に、あまり気のきかない者達でも何とかかんとか牧会してこれたのです。
それは、主が城壁となり、悪いものから、教会を守ってくれたからなのです。

”17 今、あなたはどうすればよいか、よくわきまえてください。わざわいが私たちの主人と、その一家に及ぶことは、もう、はっきりしています。ご主人はよこしまな者ですから、だれも話したがらないのです。」”

しかるに、ナバルはその城壁となったダビデ達に渡す一片のパンも一杯の水もない、と
答えました。それが彼に災いをもたらします。
今の時代でいうなら、キリストが食べるべき、パン、メッセージがない、
はたまた、受けるべき水、聖霊の働きがない、そのことをいっているのです。

繰り返しますが、それは、教会の礼拝で、説教が行われていない、
キリスト教会で、リバイバル聖会が行われていないということではないのです。

それらは行われているでしょう、否、ますます盛んに行われるでしょう。

しかし、艱難前に携挙があるなどとの、終末の悪霊の教義、聖書とまるで反対のメッセージ、
パンをキリストは受けることが、食べることができないのです。
はたまた、獣みたいにわめき、笑う、獣リバイバル、悪霊リバイバルの水を
キリストに飲めといってもそれは飲めないのです。

「今、あなたはどうすればよいか、よくわきまえてください。」

この日、ダビデを通して、ナバルの家にわざわいが及ぶことははっきりしていました。
同じように、終末の日に愚かな歩みをするクリスチャン、教会にわざわいが
臨むことははっきりしています。
それを彼らが知らないのは、この書を読むことができず、見ても見ず、悟らないからです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー -----------------------------7d91820a01ae Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream