NO. 646 イスラエルに鍛冶屋がいない

”テキスト:1サムエル13:19 イスラエルの地のどこにも鍛冶屋がいなかった。ヘブル人が剣や槍を作るといけないから、とペリシテ人が言っていたからである。
20 それでイスラエルはみな、鋤や、くわや、斧や、かまをとぐために、ペリシテ人のところへ下って行っていた。
21 鋤や、くわや、三又のほこや、斧や、突き棒を直すのに、その料金は一ピムであった。
22 戦いの日に、サウルやヨナタンといっしょにいた民のうちだれの手にも、剣や槍が見あたらなかった。ただサウルとその子ヨナタンだけが持っていた。
23 ペリシテ人の先陣はミクマスの渡しに出た。”

本日は、「イスラエルに鍛冶屋がいない」という題でメッセージをしたいと思います。
テキストに沿って見ていきます。
 

”19 イスラエルの地のどこにも鍛冶屋がいなかった。ヘブル人が剣や槍を作るといけないから、とペリシテ人が言っていたからである。”

この日、ペリシテ人により、圧迫されていたイスラエルの地には、鍛冶屋がいませんでした。
鍛冶屋のたとえの意味合いは何でしょう。鍛冶屋は、剣や槍をとぐものです。
すなわち、みことばと関係します。
神のみことばは、「御霊の剣、すなわち神のことば」と書かれているよに、
剣としての意味合いがあります。剣は、敵を撃ち破るものとしての武器です。
槍も似たような意味合いとして書かれています。
しかし、肝心の剣や、槍ではありますが、何度も戦いを経ているうちに、
刃こぼれしたり、弱くなります。
鍛冶屋はそれを打ち直し、整備するわけです。
 

ですから鍛冶屋ということばがさすものは、神のみことばをあずかる
神学校のたぐいかもしれません。
それが、神の民、イスラエルの地になかったとは、非常に深刻な
事態だったわけです。

そして、それは残念ながら、現代のキリスト教会の現状をあらわすことばでもあります。
現在のキリスト教会の神学校はみな、敵の手に渡され、敵の論理を宣伝する場となっています。
日本の神学校やら、ミッションスクールなどは、皆、アメリカ、獣の国のひもつき、
資金を押さえられており、背教推進のとりでとなっています。

いわく神は死んだ、史的イエス、キリストは復活しなかった、奇跡はない、などとの
敵の論理が、阿呆教授
から、阿呆学生へと教えられているわけです。それで等身大の
阿呆が育っていくわけです。阿呆同志も大いに育ち、西南の方にも阿呆がさらに育つ、
そんな状況になっています。

「ヘブル人が剣や槍を作るといけないから、とペリシテ人が言っていたからである。」

この日、鍛冶屋がイスラエルになかった理由ははっきりとしています。
それは、敵のおもわく、すなわち、イスラエル、神の民に剣や、槍を作らせないためなのです。
同じく、今の時代、新約のイスラエルであるクリスチャンの間に真の鍛冶屋、すなわち、真の
学びの場が消えてしまった理由もはっきりしており、敵のおもわく、策略なのです。

”20 それでイスラエルはみな、鋤や、くわや、斧や、かまをとぐために、ペリシテ人のところへ下って行っていた。”

鍛冶屋がないために、イスラエル人はみな、敵である、ペリシテ人のところに鋤や、くわなどを磨ぐために、敵であるペリシテ人のところにいくしかありませんでした。鋤や、くわや、斧や、かまは、
皆、畑の耕作のために使用するものです。
今で言えば伝道、牧会のために使用する道具、教え、団体がみな、敵の手にあるということです。
このことは、確かに今の時代、成就しています。
伝道クルセードとしては、 ビリーグラハムクルセードが有名ですが、そもそもこの人物は、
フリーメーソン、悪魔礼拝者であり、敵側の人物です。そんな人物の方法、手段を我々は伝道のために、用いるようになっているのです。

ペリシテ人の意味合いは、移民というものです。移民とは、要するに外国人であるということです。
今で言えばクリスチャンではない、他の国民、この世の方法を用いる、そんなことでしょうか。
ですから、具体的には、伝道や、牧会にこの世の方法、手段が用いられると言うことです。
これは、今さかんにキリスト教会で行われていることであり、この世の心理学、カウンセリングなどが、
大いに用いられています。
 


21 鋤や、くわや、三又のほこや、斧や、突き棒を直すのに、その料金は一ピムであった。
22 戦いの日に、サウルやヨナタンといっしょにいた民のうちだれの手にも、剣や槍が見あたらなかった。ただサウルとその子ヨナタンだけが持っていた。
23 ペリシテ人の先陣はミクマスの渡しに出た。”
 

「戦いの日に、サウルやヨナタンといっしょにいた民のうちだれの手にも、剣や槍が見あたらなかった。」ことが書かれています。剣や、槍がなければ、戦いにはなりません。
剣は、御霊の剣、すなわち神のみことばと書かれているように、みことばに関すること、
具体的には教理や解釈に通じると思います。

この日、剣や、槍を持っていない、イスラエル人が戦いにはならなかったように、今の日も
クリスチャンは実は敵との戦う体制にはありません。

そのようにいうと語弊があるかもしれませんが、いつものようにはっきりいいます。
今のクリスチャンは、もう終末に入ったかという日なのに、敵とまともに戦うことができません。
終末の警告を語る黙示録は手にあり、ダニエル書もあるのですが、それを正しく読むことができないのです。あたかも鍛冶屋がないために、剣を得ることのできないイスラエル人みたいなものなのです。
神はたとえを通して多くのことがらを我々に語っているのですが、私的解釈云々ということばに
惑わされ、まともな解釈、教えがありません。
ペリシテ人のもとに行かなければ鋤もくわも研げないイスラエル人みたいなものです。

しかし、このような状態が正しいわけはありません。
イスラエルには、すなわち、現代のクリスチャンには、ペリシテ人ではない自前の鍛冶屋が必要なのです。
鍛冶屋とは、繰り返すようですが、正しい聖書解釈者、正しい教えを語る人々です。

ペリシテの鍛冶屋すなわち、あほたれのように等身大の神学をめざしたり、愚かな曲げられた解釈に血道をあげるより、
正しく主の語られたことを語れる解釈者、教える人々が待たれることを知りましょう。
終末における主のみこころを行いましょう。

−以上ー
 
 
 
 
 
 
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