No. 645取り除かれるぶどうの枝

”テキスト:ヨハネ15:1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。”

本日は、取り除かれるぶどうの枝という題でメッセージをします。キリスト教会には、
一度救われたら、決してほろびることはないという教理があります。
すばらしい教理ですが、しかし、聖書のみことばと明らかに矛盾しています。
このことを見ていきましょう。

テキストに沿って見ます。

”1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。”

主イエスはぶどうの木であり、私達は枝です。
ぶどうの実はおいしく甘いものですが、私達もぶどうの木、すなわち、主について
いるなら、実を結び、人にも神にも喜ばれる者となることができます。

「わたしの父は農夫です」

農夫の役割は、ぶどうの手入れをして、ぶどうが良い実を結ぶよう、手を加えることです。
ぶどう園には、農夫が存在するように私達は私達のクリスチャン人生の中に、
農夫なる方、必要に応じて刈り込みや、手入れをする方が存在することを
認めなければなりません。
刈り込みや手入れは痛いものですが、しかし、それを通して、我々は
対処され、変えられていきます。

”2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。”
 

ここでは、実を結ばない枝は、取り除かれることが書かれています。
枝はクリスチャンであり、もし我々が主についてクリスチャンになったとしても、
実を結ばない、聖霊の実を結ばない生活をしているなら、いつの日かキリストから、
取り除かれてしまう、このことが書かれているのです。
 
 

他にもこれに類する記述が聖書にあります。
 

「マタイ3:10 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」

”ルカ13:6 イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。
7 そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』
8 番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。
9 もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」

このように明らかに聖書には、実を結ばない枝は取り除かれ、また実を結ばない木は切り倒されると
書いてあるので、真剣に真面目にこのことを受け取るべきです。

何年たっても、御霊の実を結ばないため、結果として取り除かれてしまった枝のような
クリスチャンは私達の回りにいくらでも見ることができます。

「実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」

ここでは、実を結ぶために刈り込みが行われることが書かれています。
刈り込みとは、実を結ぶ枝を残し、そうでない不要な枝や葉を刈り取ることです。
その結果、栄養が残った枝に注がれ、良い実を結びます。

クリスチャン生活において刈り込みが行われることを知るべきです。
すなわち、私達の生活において、不要なこと、栄養がそがれることはいずれ
刈り込まれていくことを知るべきです。

多くの事が刈り込まれていきます。この世の野心、出世欲、スポーツで
一番になりたいだの、有名人になりたいとの欲..。

御霊と懸け離れた多くのことがらが刈り込まれ、結果、私達にとって
必要な御霊に関することに力を注げるようになります。


3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。”

きよいということばが出てきます。前節の「刈り込み」ということばには、
きよくするというニュアンスがあります。
ですから、私達は、実をむすぶためにきよめられることが必要です。

私達は主のことばを通して清められるこのことを知りましょう。
聖書を読む習慣は人をきよめます。

世界一の悪魔教経典、ユダヤタルムードなんかを毎日読んでいると、
大変なサタニストができますが、しかし、聖書を読む時、それらを通して清められる、このことを
知りましょう。
 


4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。”

ぶどうの木から切り離された枝がぶどうの実を結ぶことはあり得ないことです。
同じようにキリストから離れたクリスチャンが御霊の実を結ぶことはありえません。
ですから、我々が本当に御霊の実を結ぶことを望むなら、とどまるという努力が必要なのです。
留まることの一つの方法は祈ることでしょうか。私達が必要な祈りの時間をささげることにより、
我々はキリストにとどまることができる、そう私は思います。

一流のピアニストがその位置に留まるためには、日に何時間かの練習が必要と聞いたことがあります。
これは、一流のマラソンランナーも同じでしょう。
何もしなければそこにとどまることはできません。
同じく祈らない、みことばを行わないでいるなら、早晩ぶどうの木から離れていくことになります。
 


5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。”
 

「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどま」るとは、御霊なる方がとどまることを
語ります。私達が祈りの生活を送り、主の霊が留まるなら、自然に多くの実を結ぶことになります。

難しいことではありません。しかし、祈りが薄れ、聖霊が消え去るなら、実を結ぶことは困難です。
ポイントは私達が祈りの中で、ぶどうの木なる方につながっているかどうかにかかります。
 


6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。”
 

祈りの中で主にとどまっていないなら、いずれ、枝のように捨てられ、枯れることが書かれています。
枯れるのは水、すなわち、御霊に触れないからです。
そして、いずれ、火に投げ込まれ、燃えてしまいます。
火は悪い霊のたとえです。
ですから、私達は知らなければなりません。
クリスチャン生活において、中庸だの、中立などはなく、どちらか、
一つの道しかないということを。ここでいうなら、クリスチャンとして、御霊に満たされ、御霊の
実を大いに結ぶ道をえらぶか、はたまた、火で焼かれた枝のように、悪霊に焼かれ、惑わされるか
どちらかなのです。
 

その間などはありません。2つに一つなのです。
主もこのようにいわれました。

”ルカ11:
23 わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。”
 

味方か敵かどちらかであり、集めるか散らすかどちらかです。
中庸などなく、中立など存在しないのです。

そして、どちらかの極端しかないのなら、それなら、積極的に御霊の実を結ぶ道を選びたい、
そう私達は思っているのです。
 

御霊に満ち、その実を結ぶ道を選ばないのなら、大なり小なりみな、悪霊の火で
燃やされていきます。
あの中東の悪魔民族、ガザのパレスチナ人を殺し、子供の学校を攻撃し、
100人以上の子供を殺す、人類史上最悪のごろつき民族どもが、「終末の日時計」「終末の鍵を
握っている神の民」なんかに見えているのは、すでに悪霊で目をやられている
証拠です。目の御不自由な困った悪霊つきクリスチャンです。
 


7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。”

主のことばが私達にとどまるなら、私達の祈りが聞かれることが書かれています。これは
本当です。私も
この働きを始めて多くの祈りが答えられました。
少ししか力がなくても主のことばを行おうとするなら、主は祈りをきいてくださいます。

”8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。”

神のみこころは私達が実を結ぶことです。
実の意味は何なのでしょう?

一つの意味合いとして、実、種は、
次の子孫と関係しています。そう意味合いでは、実とは子供がうまれること、具体的には人が救われることでしょう。

もう一つの意味合いは御霊の実なのでしょう。
ですから、私達は御霊の実を結ぶことが大事です。いつまでも御霊の実を結ばない、実りのないクリスチャンであると、いずれ、ぶどうの木から切り離され火で焼かれてしまうからです。

御霊の実はぶどうの木である主イエスに深くふれあっているかどうかに
関係しており、祈り、みことばにふれることが必須です。
愛、喜び、平和、寛容、これらの御霊の実は主に祈りの中で触れているなら、
特に努力しなくても自然に結ぶものです。

終末における主のみこころを行いましょう。
ー以上ー
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