No. 643聖霊とイエス


”テキスト:ヨハネ14:
16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
17 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。
18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。
19 いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。
20 その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。”

本日は、聖霊とイエスという題でメッセージしたいと思います。
テキストに沿って見ていきます。
 

”16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
 

ここでは、聖霊なる方、助け主なる方について
語られています。この方は、助け主、ヘルパーと書かれていますが、
このことばは明らかに以下のことばと関連しています。

”創世記2:18 その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」”
 

ここで神は人について「人がひとりでいるのはよくない。」と語りました。
このことばは暗示的です。
このことばの第一義的な意味合いは男が一人でいるのは、よくない、
ふさわしい奥さんをもらって、助けてもらえという意味合いと理解できます。

そして、たとえの意味合いとしては、人、人間という存在が、一人でいるのはよくない、何故なら、
惑わされたり、偽りの霊にやられるから、だから、
助け手が必要と理解できます。
その助け手、人の歩み、奉仕の助け手は、聖霊として来られた方、そう理解できるのです。
ふさわしい助け手である、妻を得られて男性の歩みが強められるように、
クリスチャンの歩みは、助け手、聖霊を通して強められるのです。

神がアダムに与えたエバはふさわしい助け手となり、
彼を助けました。
実際、結婚するとわかるのですが、奥様の存在は偉大です。
料理、洗濯、育児、買い物、みな文句もいわず、時々文句が出る奥様もいるかもしれませんが、
それはともかく、大いに男性の歩みを助けていただけるものです。

さて、この助け手である妻、奥様の存在は、また、霊的な助け手、聖霊がなさる働きの型です。
聖霊なる方は妻がその夫を陰に日なたに助けるように、我々クリスチャンの歩みを助けてくださる
方なのです。
 
 

”17 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。”

この聖霊なる方に関して、「真理の御霊」と書かれています。
この意味合いは何でしょう?
真理という抽象的なことばの意味合いは、本物という意味合いです。
本物とは何かというと、偽物ではないということです。
本物(真理)の一万円札といえば、偽札の一万円札ではないという意味合いです。
いわんとしていることはこういうことでしょうか。
偽の霊があり、偽の聖霊もどきの霊がありえるということです。
そして、そんな霊をつかんでしまうなら、ちっとも助けにならず、逆に惑わされてしまうということです。
教会で働くのは聖霊のみであると思ったなら大間違いです。
逆におかしな聖会に参加するなら、惑わしの霊を受けるということがあり得るのです。

”世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。
 

聖霊なる方はこの世には全く受け入れられない、あたかもなきがごとき存在である、
このことを覚えましょう。

聖霊のことは、テレビにも載らないし、新聞でも報道しないのです。

”しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。”

しかし、我々にとって、聖霊なる方は、親しい存在です。
それではどこにその方は居られるのか?と聞かれると
返事に窮しますが、答えは、ここで書かれている通り、「その方は私達とともに住み、私達のうちにおられる」のです。
 

”18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。”

ここで孤児にしない、もう一度主が帰って来られることが書かれています。
これは、何を意味しているのでしょう?
再臨のことかと思う人もいるかもしれませんが、後の記述を見るとそうではないようです。
 
 

”19 いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。”
 

世がキリストを見ないということばは、再臨に関する言葉ではありません。再臨に
関しては全ての人がこの方を仰ぎ見る、特にキリストを刺し通した者が仰ぎ見ることが明確に
黙示録に記されているからです。では何を意味しているのでしょう?

世がキリストを見ないということばは、上記聖霊に関する、「世はその方を見もせず、知りもしないからです。」とのことばと一致します。
ですから、ここでいわれているのは、聖霊としてこられるキリストについて語られているのです。
 

「いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。」とは非常に象徴的な言い方です。
この世は、人の姿をした肉体を持つ存在、ナザレのイエスに関しては、その存在を認めます。
その教えを受け入れるかどうかは、ともかく、ナザレのイエスが人間として歴史上、存在したことだけは
認めるのです。
 

しかし見えない存在として来られるイエスすなわち、聖霊として来られるイエスに関しては別です。
彼らは、見えないものは存在しないとして、理解せず、認めないのです。
しかし、弟子にとっては、別です。この聖霊として来られたイエスは弟子にとり、必須の
存在であり、この方なしで我々はまともにクリスチャン生活を送ることはできないのです。
「しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。」とは
このことをさします。

”20 その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。”
 

その日には私達の間に聖霊となって、来られたキリストがおられることがわかり、
また、私達自身が
聖霊となられた方の間にいることがわかるのです。
このことは本当です。私達のように悟りのにぶいものが神のことを理解し、
奥義を理解するのは難しいのです。そうであっても、主の霊が働くことにより、
我々にも確かに多くのことが理解できます。
確かに私達の間にこの方がおられることは、実感として理解できるのです。

聖霊という方について考える時、それは霊ということばがついているため、
何だかあやふやな概念になり、理解が難しいのです。
しかし、ここで明確に語られているように、かつて肉体をもって来られ、弟子達を助けられた
イエスキリストが霊として今、私達とともに歩んでいて下さる、
それが他でもない、聖霊なのである、それを理解するなら、
難しいことはありません。

この方を信じ、歩んでいきましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。
ー以上ー 第4回黙示録セミナーのお知らせ -----------------------------7d92453916008e Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream