NO640天の住まい(2)

テキスト:ヨハネ

”14:1 あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。”

本日は、天の住まい(2)として、この件をさらに見ていきましょう。
 

かつて主はユダヤ人に対して、『わたしのいる所にあなたがたは来ることができない。』
と語りました。入るべき天の御国へ彼ら、ユダヤ人、神の民は入ることができないと明言したのです。

そして、同じ主がその弟子達に対しては、住まいを用意しに行くと語りました。
彼らは天の御国に招き入れられます。これらの2者への主の対応は全く対照的であり、
正反対です。
この対比、区分について学んでいきたいと思います。

テキストに沿って見ます。

”1 あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。”
 

主は心を騒がしてはいけない、神を信じ、キリストを信じることを語りました。
何故そう語ったのでしょうか?

それは、これから困難な時が来るからです。
キリストは逮捕、死罪に処せられ、弟子達も追っ手を恐れてちりじりばらばらと
逃げる日が近付いています。

終末でいえば、艱難時代に突入するようなものです。

そのような困難な日、大事なことは不信仰になり、まるで悪魔が世界の全てを支配している、
自分の命を救うためには、信仰も何もかも捨てて妥協するしかないと
錯覚、混乱することです。

主はかねてから、御自分でいわれた通り、エルサレムで苦難にあい、また前もって
語っていたように友に裏切られ、また、死を経過しましたが、3日目に復活したのです。
困難にあったのは、事実ですが、しかし、このことは、前もってわかっていたことであることを知りましょう。
 

”2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。”
 

さて、ここで、主は、弟子達に対して、主は去っていかれるが、しかし、
それは、弟子達のために場所を備えに行くのであると語っています。
そして、それはそうなのです。

しかし、同じ主はかつてユダヤ人に対して、「わたしのいる所にあなたがたは来ることができない。」と

明白に語ったのです。この私の行くところが、天の父の住まいであるとするなら、
天の御国に入る、入らないということに関連して明白な区分があることを正しく知るべきなのです。

これらのユダヤ人も弟子達も同じ聖書を読む、神の民として育ち、毎週会堂に集まり、
説教を聞いていたのに、このような明白な区分がついてしまいました。
 

しかし、このことは他人ごとでなく、恐らく終末の日にもこの区分が行われるでしょう。
すなわち、同じ教会に集い、礼拝に集い、聖書を読み、クリスチャンとして歩みながら、一方では、
「わたしのいる所にあなたがたは来ることができない。」といわれてしまうクリスチャンがあるはずなのです。逆に弟子の歩みをし、結果、主から、「場所を備えに行く」といわれ
かつ再臨の時、迎えられるそういう類いのクリスチャンもいるはずなのです。

”3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。”
 

ここでは、「また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。」と明白に再臨について語ります。
再臨は、我々クリスチャンの希望ではありますが、しかし多くの人々が勘違いしていることがあります。

それは、クリスチャンと名がつけば、誰でも彼でもその日、再臨の主に暖かく迎えられるという考えです。そうであって欲しいし、そう私も願いたいのですが、しかし、繰り返し繰り返し聖書を読むなら、
聖書はそう語っていないように読めます。

この箇所で、「また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。」と語られているのは事実ですが、
しかし、これは全ての人に対して、全ての群集に対して語られているのではなく、
弟子達のみに語られています。これは、最後の晩餐の場面であり、主と弟子達しか出席していないのです。

ですから、再臨の日、主に迎えられるのは、基本的に弟子であり、
そうでない人は惑わされ、操られ、神の敵となったり、反キリストの手先となってしまう可能性があります。

実は再臨の時が楽しみ、喜びの時ではなく、逆に裁き、叱責の時、恐ろしい時となってしまう、多くのクリスチャンがいることを聖書は暗示しています。以下はその箇所でしょう。
 

”ヨハネの黙示録 1:7 見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。”
 

キリストを突き刺す人々に対しては、再臨の時が恐ろしい時となることが
記載されています。突き刺すとは、剣、槍に関することばであり、みことば、教理と関係します。
ことばは神であるといわれた方のみことばに攻撃を加え、再臨は2回あるなどとの嘘をばらまく人々が
その日、その報いを受けるようになるのでしょう。

”マタイ24:30 そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。”
 

地上のあらゆる種族はたとえであり、地につく、この世的なあらゆるキリスト教宗派、教団、
団体のたとえです。
聖書で禁じられている入れ墨をわざわざ入れる牧師擁護、推進、カソリックとのエキュメニカル推進の
某学生伝道団体なんかもこの類いなのでしょう。

伝道しているから神に喜ばれる、とそういうものではなく、神のことばに忠実かどうかが
大事なのです。この世についており、神のことばをないがしろにしているなら、いずれ
「悲しみながら、人の子」の再臨を見上げることになります。

伝道というより、ただしく再臨を迎える「4つの法則」を正しく認識すべきです。
いわく、
1. 地上につかない、この世的にならない
2. 入れ墨容認、不法、不良容認の罪大好き体質を悔い改める
3. カソリックは、異端教であり、こんな「マリヤを含めた4位一体」を
語る教会とは手を切る
4. 伝道という奉仕は大事ではないとはいわないが、しかし、あくせく働き奉仕した
マルタを主がほめたのではなく、逆に正しく主のみことば、いわれた
ことを聞くことに力を入れたマリヤをほめたことを思い出すこと。
伝道はするが、しかし、みことばには従わないという
愚かな状態にならない。

以上が、主の再臨の時正しく迎えられる「4つの法則」であり、
今の時代には大事なことです。熱心に伝道しているようであるが、しかし、知識のないものであってはいけません。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
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