NO. 639天のすまい

 

 

”テキスト:ヨハネ7:32 パリサイ人は、群衆がイエスについてこのようなことをひそひそと話しているのを耳にした。それで祭司長、パリサイ人たちは、イエスを捕えようとして、役人たちを遣わした。
33 そこでイエスは言われた。「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。
34 あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。また、わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません。」
35 そこで、ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには、見つからないという。それならあの人はどこへ行こうとしているのか。まさかギリシヤ人の中に離散している人々のところへ行って、ギリシヤ人を教えるつもりではあるまい。
36 『あなたがたはわたしを捜すが、見つからない。』また『わたしのいる所にあなたがたは来ることができない。』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」”
 

本日は天の住まいという題でメッセージをしたいと思います。

テキストに沿って見ていきます。
 

”32 パリサイ人は、群衆がイエスについてこのようなことをひそひそと話しているのを耳にした。それで祭司長、パリサイ人たちは、イエスを捕えようとして、役人たちを遣わした。”

この日、祭司長、パリサイ人たちは、イエスを捕えようとしていました。何度も繰り返すようですが、
この時代、イエスの時代の異常さを理解しましょう。
この時代は明らかに旧約の時代の終わりの日、すなわち、ある意味、終末であり、
その日、神の民は変質し、背教の道を歩んでいたのです。結果、神から遣わされた神のひとり子、
イエスを捕らえ、死に渡そうと画策していたのです。

まことに悪を善、偽りを真理といいかえる末期の時代、背教の時代だったのです。

”33 そこでイエスは言われた。「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。
34 あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。また、わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません。」”
 

この状況を見た主イエスは以下のことをいいました。

1. これから、自分は自分を遣わされた方すなわち父なる神のもとへ行く。
2. その場所には、ユダヤ人は行くことができないこと

本日はこのことを考えてみたいと思っているのです。

一つ知らなければならないことは、「そこでイエスはいわれた」と書かれているように、
これらのことがらは関係しているのです。
すなわち、「祭司長、パリサイ人たち」が、イエスを捕らえようとしていたように、
ユダヤ人全体が、堕落、背教、変質していたことと彼らが主の行かれた場所へ行けない、すなわち、
父なる神のおられる場所へ行けないこととは関係しているのです。
 

この箇所で、主のいわれる「私のいく場所へいく、いけない」という表現をもって、私達クリスチャンに
対して、我々の行く末には、2つの可能性があることを語っているように理解できます。

すなわち、
1.主の行かれた場所、天の御国に入るクリスチャン
2.主の行かれた場所、天の御国に「入れない」クリスチャン
 

明らかにこの2つの可能性があり、そのことを主は語っているのです。
クリスチャンと名がつけば、誰でも天の御国に入るのだという考えもあるかもしれませんが、
聖書の論調はどうもそうは語っていないようだということは理解してください。

何故そういうのかというと:
繰り返すようですがこのイエスの時代は明らかに旧約の最後の時代であり、ユダヤ人とは
他でもない旧約の神の民なのです。
そのユダヤ人、神の民に対して、主は「あなた方は私のいくところは来ることはできない」今でいうなら、
天の御国に来ることはできないと明言しているのです。
ユダヤ人は何をしていたかというと、神のことば、聖書を持ち、神の民として異邦人から
区分され、礼拝も会堂もまた会衆(教会)も持っていたのです。
そうであるのに、彼らは主の行くところ、すなわち、天の神のおられる御国に
入ることはできないとはっきりいわれてしまったのです。

そして、このことは再度終末に繰り返すと思われるのです。

すなわち、新約の神の民である教会のクリスチャン、礼拝も会堂も教会も
ある人々が天の御国に入れないという恐るべき背教の
日が来るのではないかと思われるのです。
 

もちろん、全てのユダヤ人が天の御国に入れなかったのではなく、
12弟子のように、「あなたがたのために場所を用意しにいく」「用意ができたら、再度来てその住まいに
迎える」と、約束をもらった人々もいたのです。
新約においても弟子の歩みを続け、結果再臨の日、天に挙げられ、主に迎えられる人々がいるのでしょう。
 

天の御国に入ること、神の定めた入るべきところへ入ることをさし、聖書には、数々の表現があります。

すなわち、
*永遠の命を得る、失う
*麦と毒麦
*良い魚と悪い魚
*狭い門から入り命に至る、広い門から入り滅びに至る

これらは皆、未信者を対象にいわれているのではなく、しかし、
クリスチャンを対象にいわれているのであることを覚えてください。
魚は水、すなわち、御霊の中に生きるものとしてクリスチャンのたとえです。
しかし、そのように御霊の恵みの中でクリスチャン生活を送りながらなおかつ悪い魚として、
焼かれるすなわち、火の裁きにあうクリスチャンがいると語られていることを知るべきです。
 

そして、ここでは別の表現として、
天の御国に入るクリスチャンと、入れないクリスチャンという区分に関して語っていることをとらえましょう。


35 そこで、ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには、見つからないという。それならあの人はどこへ行こうとしているのか。まさかギリシヤ人の中に離散している人々のところへ行って、ギリシヤ人を教えるつもりではあるまい。”
 

「私たちには、見つからない」すなわち、主を見つけることができない、と語る言葉の意味合いは
どのようなものなのでしょう。

文字どおり考えれば、イエスをカルト扱いし、律法学者、パリサイ人のように、
イエスを捕らえようとする人々の間から主は身を隠す、だから誰も彼を見つけることはできない、
そんな風に理解できます。

彼らがカルト扱いし、攻撃し、非難する、そのゆえに主は身を隠されたのです。
さて、同じことは終末においても再現するでしょう。終末の日、人々は聖霊として来られた方を排撃し、
悪霊よばわりし、結果、クリスチャンの間から、聖霊が消え去る日が来るのです。
その結果、誰も聖霊に触れられない日が来ます。すなわちさがしても見つからない日がくるのです。
 

”36 『あなたがたはわたしを捜すが、見つからない。』また『わたしのいる所にあなたがたは来ることができない。』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」”

さて、ここでもまた『わたしのいる所にあなたがたは来ることができない。』とのことばが
取り上げられています。
ですから、このこと、主のいわれた『わたしのいる所にあなたがたは来ることができない。』とのことばをよくよく考えることが必要なのです。

このことは確かに大事なことです。
何故なら、このユダヤ人たちは、キリストがおられる天の住まい、父なる神の住まいに
行くこと、住まうことが「できない」と断言されてしまったからなのです。

聖書を持ち、毎週安息日に会堂に集まり、神を礼拝しても
最終的に、キリストのおられる天の家に住まうことができなければ、一体何のための
信仰生活であるか、意味のないものです。

このことはよくよく考えなければなりません。
 

さて、何はともあれ、旧約の終わり、神の民は背教に入っており、
せっかく毎週会堂に集まって聖書の話を聞いても、天の住まいに入れないという
皮肉な状況だったのですが、しかし、これは世の終わりに住む、我々終末のクリスチャンに対する、
警告であることを知りましょう。

何をいっているのかというと、同じことが終末の日に再現すると思われるからです。
終末の日に多くのクリスチャンが入るべき天の御国に入れなくなることを多くの表現で
暗示しています。
以下の記述はその一部と思われます。


黙示録3:3 だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。”
 

このサルデスの教会の人々のように、いつ主が再臨するのかわからないなら、天に迎え入れてもらうのは難しいでしょう。

”マタイ25:8 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
9 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
10 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
11 そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。
12 しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。
13 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。”
 

この愚かな娘のように、戸がとじられ、しかも主に「知らない」といわれるなら、
天の住まいに住まうことは困難でしょう。

かくのごとく、明らかに聖書は終末の日にも『わたしのいる所にあなたがたは来ることができない。』といわれてしまうクリスチャンが存在することを語ります。
 

根拠のない自信を持たず、警告に耳を傾けましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー -----------------------------7d83223930122 Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream