NO. 636すでに語られている


”テキスト:ヨハネ10:
23 時は冬であった。イエスは、宮の中で、ソロモンの廊を歩いておられた。
24 それでユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」
25 イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。
26 しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。”
 

本日は、すでに語られているという題でメッセージをします。
テキストに沿って見ます。

”23 時は冬であった。イエスは、宮の中で、ソロモンの廊を歩いておられた。
24 それでユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」”

ここでユダヤ人たちは、イエスに対して不満をいっています。
それは、イエスがはっきりしたことをいわない、
自分がキリストなのかどうか、はっきりいわないという非難です。

”25 イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。”
 

さて、それに対するイエスのことばは意外なものです。
彼はすでに自分はキリストかどうかを語っていると語ります。
そう語っているけど、ユダヤ人達は信じようとしないと語っているのです。

ですから、ここで2者間の意見にギャップがあるわけです。
片方はすでに語ったといい、他方は、はっきりと語っていないといっているわけです。

私達はこの2者の意見を聞き、どちらが妥当と思うべきなのでしょうか?

人間的な意見をいうなら、正直、イエスははっきり語っていないと言う
ユダヤ人の意見も多少わかるような気がします。
私がクリスチャンになって間もない頃は、イエスは御自分がキリストであると
あまりはっきり語っていないのではと思ったことも正直あります。

そのためか、近代神学を標榜する人々の間には、イエスは自分が神だともキリストだとも
実はいっていない、民衆が勝手に思い込んだに過ぎない、なんていう意見もあります。もちろん、
彼らは愚かな勘違いの面々であり、私は彼らとは意見を一つにはしません。

私達がそのようにイエスの主張をものたりなく思ったり、
はっきりとしたことを語っていないと思う、その理由は私達が、
あまりにも自己宣伝、自己アピールする人々に慣れ過ぎており、その
反動で、明確でない主張にはものたりなさを覚えるのかも知れません。
今の時代は、政治家もタレントも自分を大きくアピールすることに力を
入れており、少しでも大きく見せたい、そんな時代なのです。

わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです」

しかし、主の主張は、すでに自分はキリストであることを語っていると
いうのです。しかし、そもそも信じるつもりのない
人にはわからない:そういっているのです。
 
 

主が御自分を語る方法は、誰でも彼でも聞く気のない人にも
明瞭に語るという方法ではありませんでした。
しかし、
求める人にはそれとわかるものなのです。

今の時代にも「そもそもイエスは自分で自分は神だとはいっていない。
取り巻きの弟子達が勝手に間違えたのだ」なんていうことを真顔でいう
おかしな神学者は結構います。

結局、その気のない人聞く気のない人、そもそも何があっても信じないと心に決めている
人々には、この方のことばはわからないのだということが理解できます。

しかし、この様な一見はがゆいような、謙虚な主のことばも並べて見れば一目瞭然、
明白に御自分が誰だかわかるように語っています。

以下のことばはその一例です。
 

”ヨハネ8:58「イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。(私はある=旧約で神をあらわす名前」”
 

”ヨハネ1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。”

”ヨハネ20:28トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」”

確かに主イエスは人前で大きなラッパを鳴らしたり、大宣伝をする方ではなかったのですが、
しかし、福音書を読めば、明らかにこの方がどのような方かわかるようになっているのです。
真理なら信じるという気があるならばではありますが。

しかし、同じ福音書を読んでもイエス をキリストだとも神だとも読めない、理解できない人びと
も確かにいます。

しかし、そう思えないのはそもそも信じていないから、信じたくないからに過ぎません。
彼らはたとえ、どんなに説得されようと、説明されようと、
心の底では信じるつもりがなりのです。

「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。」といわれる主のことばがやはり正しいのです。
 

聖書の方法、またイエスキリストの方法は、確かに話すべきことは話している、
しかし、その語り、表現は、その気のない人、そもそもどれほど、説明されても
はなから信じるつもりのない人にはそれとわからない方法である、表現である:
このことを覚えましょう。

主はたしかに愛の方ですが、その気のない人、
どんな風に説明されてもキリストのあがないなんか受け入れたくない人を。無理矢理、ひっぱって来ても
強引に力づくで信じさせようとは思っておられません。これは確かです。

しかし、真に求める人はそれを理解し、見、悟ります。

終末における主のみこころを求めましょう。

ー以上ー  緊急:セミナーのお知らせ
  -----------------------------7d9ae284007c Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream