No. 635サウルとは誰か


”テキスト:1サムエル10:1 サムエルは油のつぼを取ってサウルの頭にそそぎ、彼に口づけして言った。「主が、ご自身のものである民の君主として、あなたに油をそそがれたではありませんか。
2 あなたが、きょう、私のもとを離れて行くとき、ベニヤミンの領内のツェルツァフにあるラケルの墓のそばで、ふたりの人に会いましょう。そのふたりはあなたに、『あなたが捜して歩いておられるあの雌ろばは見つかりました。ところで、あなたの父上は、雌ろばのことなどあきらめて、息子のために、どうしたらよかろうと言って、あなたがたのことを心配しておられます。』と言うでしょう。
3 あなたがそこからなお進んで、タボルの樫の木のところまで来ると、そこでベテルの神のもとに上って行く三人の人に会います。ひとりは子やぎ三頭を持ち、ひとりは丸型のパン三つを持ち、ひとりはぶどう酒の皮袋一つを持っています。
4 彼らはあなたに安否を尋ね、あなたにパンを二つくれます。あなたは彼らの手から受け取りなさい。
5 その後、ペリシテ人の守備隊のいる神のギブアに着きます。あなたがその町にはいるとき、琴、タンバリン、笛、立琴を鳴らす者を先頭に、高き所から降りて来る預言者の一団に出会います。彼らは預言をしていますが、
6 主の霊があなたの上に激しく下ると、あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます。
7 このしるしがあなたに起こったら、手当たりしだいに何でもしなさい。神があなたとともにおられるからです。
8 あなたは私より先にギルガルに下りなさい。私も全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげるために、あなたのところへ下って行きます。あなたは私が着くまで七日間、そこで待たなければなりません。私があなたのなすべき事を教えます。」
9 サウルがサムエルをあとにして去って行ったとき、神はサウルの心を変えて新しくされた。こうして、これらすべてのしるしは、その日に起こった。
10 彼らがそこ、ギブアに着くと、なんと、預言者の一団が彼に出会い、神の霊が彼の上に激しく下った。それで彼も彼らの間で預言を始めた。
11 以前からサウルを知っている者みなが、彼の預言者たちといっしょに預言しているのを見た。民は互いに言った。「キシュの息子は、いったいどうしたことか。サウルもまた、預言者のひとりなのか。」
12 そこにいたひとりも、これに応じて、「彼らの父はだれだろう。」と言った。こういうわけで、「サウルもまた、預言者のひとりなのか。」ということが、ことわざになった。
13 サウルは預言することを終えて、高き所に行った。
14 サウルのおじは、彼とその若い者に言った。「どこへ行っていたのか。」するとサウルは答えた。「雌ろばを捜しにです。見つからないのでサムエルのところに行って来ました。」
15 サウルのおじは言った。「サムエルはあなたがたに何と言ったか、私に話してくれ。」
16 サウルはおじに言った。「雌ろばは見つかっていると、はっきり私たちに知らせてくれました。」サウルは、サムエルが語った王位のことについては、おじに話さなかった。
17 サムエルはミツパで、民を主のもとに呼び集め、
18 イスラエル人に言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。『わたしはイスラエルをエジプトから連れ上り、あなたがたを、エジプトの手と、あなたがたをしいたげていたすべての王国の手から、救い出した。』
19 ところで、あなたがたはきょう、すべてのわざわいと苦しみからあなたがたを救ってくださる、あなたがたの神を退けて、『いや、私たちの上に王を立ててください。』と言った。今、あなたがたは、部族ごとに、分団ごとに、主の前に出なさい。」
20 こうしてサムエルは、イスラエルの全部族を近づけた。するとベニヤミンの部族がくじで取り分けられた。
21 それでベニヤミンの部族を、その氏族ごとに近づけたところ、マテリの氏族が取り分けられ、そしてキシュの子サウルが取り分けられた。そこで人々はサウルを捜したが、見つからなかった。
22 それで人々がまた、主に、「あの人はもう、ここに来ているのですか。」と尋ねた。主は、「見よ。彼は荷物の間に隠れている。」と言われた。
23 人々は走って行って、そこから彼を連れて来た。サウルが民の中に立つと、民のだれよりも、肩から上だけ高かった。
24 サムエルは民のすべてに言った。「見よ。主がお選びになったこの人を。民のうちだれも、この人に並ぶ者はいない。」民はみな、喜び叫んで、「王さま。ばんざい。」と言った。
25 サムエルは民に王の責任を告げ、それを文書にしるして主の前に納めた。こうしてサムエルは民をみな、それぞれ自分の家へ帰した。
26 サウルもまた、ギブアの自分の家へ帰った。神に心を動かされた勇者は、彼について行った。
27 しかし、よこしまな者たちは、「この者がどうしてわれわれを救えよう。」と言って軽蔑し、彼に贈り物を持って来なかった。しかしサウルは黙っていた。”
 

本日は、「サウルとは誰か」という題でメッセージをしたいと思います。
イスラエルの歴代の王の中で、サウルは特別な存在です。

何が特別なのかというと、イスラエルの代々の王、特にユダ族の王は代々ダビデの血統です。
しかし、例外的に
サウルはたった一代限り、王となり、しかもこのダビデ王の前にイスラエルで王として君臨しました。
かくのごとくサウル王の位置は特別です。

このサウルの役割に関してテキストに沿って見ていきたいと思います。
 

”1 サムエルは油のつぼを取ってサウルの頭にそそぎ、彼に口づけして言った。「主が、ご自身のものである民の君主として、あなたに油をそそがれたではありませんか。”

サウルとは誰かということは、サムエル書を見ればわかります。
サウルとは神の民の初代の王です。初代の王なので、神に喜ばれ、
大いなる祝福があるかというとそうでもなく、いきさつを見た限り、
人々は、この国を真に治め、統治している神御自身を退け、結果として、
この人サウルを王としたことがサムエル書には書かれています。

よいいきさつではないのです。人々は神を退け人の王を選んだのですが、具体的にはこの
王とはサウルなのです。サウルとは何をたとえ、誰をたとえているのか?
私の理解では、そのたとえているものは、この世の神、サタンではないかと
思います。

いきなり、サタンが出てきてはびっくりするかもしれませんが、妥当なのではないかと
思います。終末の日を考えれば、このことはさらにはっきりします。
終末の日に人々は、真の王であるキリストを退け、偽りの王、サタンの化身である、反キリストを拝むようになります。そのような意味合いでも、神に代わり、イスラエルの王となったこの人物、
サウルはサタンのたとえではないかと考えられすます。大きな矛盾はないと思えます。
とりあえず、この視点でテキストを見ていきたいと思います。
 

”2 あなたが、きょう、私のもとを離れて行くとき、ベニヤミンの領内のツェルツァフにあるラケルの墓のそばで、ふたりの人に会いましょう。そのふたりはあなたに、『あなたが捜して歩いておられるあの雌ろばは見つかりました。ところで、あなたの父上は、雌ろばのことなどあきらめて、息子のために、どうしたらよかろうと言って、あなたがたのことを心配しておられます。』と言うでしょう。
3 あなたがそこからなお進んで、タボルの樫の木のところまで来ると、そこでベテルの神のもとに上って行く三人の人に会います。ひとりは子やぎ三頭を持ち、ひとりは丸型のパン三つを持ち、ひとりはぶどう酒の皮袋一つを持っています。”

ここで、サウルを迎える人々がいますが、その一人は、羊ならぬ子やぎを持っていることは
象徴的です。やぎと、羊は聖書的な意味合いが異なります。以下の通りです。
 

”マタイの福音書 25:32 そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、
33 羊を自分の右に、山羊を左に置きます。”

山羊は羊と比べてよい意味合いではないのです。
 

”4 彼らはあなたに安否を尋ね、あなたにパンを二つくれます。あなたは彼らの手から受け取りなさい。”

サウルはパンを二つもらいます。
パンはみことばと関係しています。サウルがサタンの型であるというならこのことの意味合いは
何でしょう。
すなわち、みことば、パンがサタンの手に渡されると言うことです。
結果、パン、みことばに基づく偽り、まどわしが許されていくのです。
そうです、このことは許されています。
 

”5 その後、ペリシテ人の守備隊のいる神のギブアに着きます。あなたがその町にはいるとき、琴、タンバリン、笛、立琴を鳴らす者を先頭に、高き所から降りて来る預言者の一団に出会います。彼らは預言をしていますが、”
 

彼、サウルの家はギブアにありました。
このギブアとは、士師記19章を見る限り、いわくつきの町です。
あろうことかこの町の人々は堕落しており、旅人であるレビ人を襲い、その
妾を暴行して殺してしまったのです。恥ずべき、恐ろしい罪です。
そして、その事件の後、ベニヤミン族はこの罪の町ギブアを擁護し、イスラエルの全部族と戦いを交え、
絶滅寸前の状態に陥りました。罪のゆえです。そして、不思議なことに
このサウル王は、このいわくつきのベニヤミン族出身なのです。

さらにもう一つついでにいうなら、このサウルという名前自体いわくつきの名前です。
サウルとは新約でいうあのサウロ、迫害者、サウロと同じ名前なのです。
もちろん、新約のサウロは後に改心して、大使徒になったのですが、しかし、
その時を名前を変えています。パウロとなっています。
ですから、サウロの名前は、新約聖書でただ迫害者として
記録されるのです。
彼はクリスチャンを迫害したのですが、
ほかならぬキリストを実は迫害していました。
下記の通りです。

”使徒9:1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、
2 ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。
3 ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。
5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。”
 

このようにサウル王の名前に暗示されている不吉な面を見ることができます。

そしてあろうことかこのサウル王自身が後に迫害者に変身します。
ダビデを国の隅々迄追いかけ、命を奪おうとするのです。しつこく何度もです。
ダビデは王としてのキリストの型であり、その命を奪おうとする
サウル王には、明らかにキリストの命を狙うものとしてのサタンの
型としての姿があります。

次を見ます。

”6 主の霊があなたの上に激しく下ると、あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます。
7 このしるしがあなたに起こったら、手当たりしだいに何でもしなさい。神があなたとともにおられるからです。
8 あなたは私より先にギルガルに下りなさい。私も全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげるために、あなたのところへ下って行きます。あなたは私が着くまで七日間、そこで待たなければなりません。私があなたのなすべき事を教えます。」
9 サウルがサムエルをあとにして去って行ったとき、神はサウルの心を変えて新しくされた。こうして、これらすべてのしるしは、その日に起こった。
10 彼らがそこ、ギブアに着くと、なんと、預言者の一団が彼に出会い、神の霊が彼の上に激しく下った。それで彼も彼らの間で預言を始めた。”

ギブアでは、サウル自身に神の霊が下り、預言をしました。

”11 以前からサウルを知っている者みなが、彼の預言者たちといっしょに預言しているのを見た。民は互いに言った。「キシュの息子は、いったいどうしたことか。サウルもまた、預言者のひとりなのか。」
12 そこにいたひとりも、これに応じて、「彼らの父はだれだろう。」と言った。こういうわけで、「サウルもまた、預言者のひとりなのか。」ということが、ことわざになった。
13 サウルは預言することを終えて、高き所に行った。”

さて、ここでは、サウルと預言というとりあわせ、組み合わせがかたられています。
ここでは、サウルが預言することに対して、
「いったいどうしたことか」ととまどいやら、驚きやらが語られているわけです。

このことは、暗示的です。もし、サウルがサタンの型であると考えるなら、確かに
ここには、とまどいや、驚きがあるからです。
サタンから来た預言などというものが果たしてあるのか?存在するのか?
という疑問、驚き、とまどいです。

しかし、このこと、サタンからの預言ということは、今の時代においては、
起こり得ることなのです。

2000年までに大リバイバルが起きる、1000万人の日本人が救われると預言し、
全く外れたピーターワグナーの様に、サタン、偽りの預言は今でも起きています。
また、同じく偽預言が外れたベニーヒンの様にサタン、悪霊からの預言と言うことは
大いにあり得るのです。

しかし、これらの偽預言者に聞き従わず、一体この霊はどこから来たのか、
「彼らの父はだれだろう。」とその由来を確認することが大事です。
 

”14 サウルのおじは、彼とその若い者に言った。「どこへ行っていたのか。」するとサウルは答えた。「雌ろばを捜しにです。見つからないのでサムエルのところに行って来ました。」
15 サウルのおじは言った。「サムエルはあなたがたに何と言ったか、私に話してくれ。」
16 サウルはおじに言った。「雌ろばは見つかっていると、はっきり私たちに知らせてくれました。」サウルは、サムエルが語った王位のことについては、おじに話さなかった。”

ここではサウルと彼の王位について書いてあります。
サウルがサタンの型であるというなら、サタンがあろうことか、神の民の国で
王位につくということについて書いてあるのです。

これは、ほとんど理解不能な概念です。

しかし、現実に即しています。
事実、神の民の地はこの世の王に支配されていました。
イエスキリストは旧約の神の民である、ユダヤの地に生まれ、
イスラエル人の間にやってきたのですが、あろうことか、神の民は、
彼を受け入れませんでした。以下のことばの通りです。

”ヨハネ1:11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。”

何故、神の民は、救い主キリストを受け入れなかったのか?
それは、この国がサタンに支配されており、この国の王がサタンだったからです。

”17 サムエルはミツパで、民を主のもとに呼び集め、
18 イスラエル人に言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。『わたしはイスラエルをエジプトから連れ上り、あなたがたを、エジプトの手と、あなたがたをしいたげていたすべての王国の手から、救い出した。』
19 ところで、あなたがたはきょう、すべてのわざわいと苦しみからあなたがたを救ってくださる、あなたがたの神を退けて、『いや、私たちの上に王を立ててください。』と言った。今、あなたがたは、部族ごとに、分団ごとに、主の前に出なさい。”

これからイスラエルの最初の王が決まるというおめでたい時にサムエルは、
「あなたがたの神を退けて、『いや、私たちの上に王を立ててください。』と言った』」と
非難を語ります。
ですから、人の王を求めるということは、
神に喜ばれることではないのです。逆に王に由来する、わざわいに人々は
会うようになります。
 

”20 こうしてサムエルは、イスラエルの全部族を近づけた。するとベニヤミンの部族がくじで取り分けられた。
21 それでベニヤミンの部族を、その氏族ごとに近づけたところ、マテリの氏族が取り分けられ、そしてキシュの子サウルが取り分けられた。そこで人々はサウルを捜したが、見つからなかった。”
 

サウルはベニヤミンの部族の出です。そして、ベニヤミンは、
かつて罪を犯し逆らい、絶滅寸前の過去のあるある意味いわくつきの部族です。
 

”22 それで人々がまた、主に、「あの人はもう、ここに来ているのですか。」と尋ねた。主は、「見よ。彼は荷物の間に隠れている。」と言われた。”

サウルは荷物の間に隠れていました。彼は、目立ちたがりでも傲慢でもなく、
逆に自分を低くしている人物であることがわかります。少なくともこの時は。
神はこの低いサウルを選びました。同じくサタンも神に選ばれたのだから、
やはり、当初は謙虚、低い位置を選ぶものだったのではないか:と想像できます。
もちろん、後にはごう慢きわまりない存在になるのですが。

謙遜であること、たとえ神に大きく用いられるようになっても謙遜にとどまること:
二段階携挙説などのよた話やお声に聞き従うな:との忠言に耳を傾ける謙虚さを
持ちつづけることこれが、サタンと同じ過ちに入らないために必要なことです。

23 人々は走って行って、そこから彼を連れて来た。サウルが民の中に立つと、民のだれよりも、肩から上だけ高かった。”

サウルは民の誰よりも肩から上だけ高かったのです。
このような表現、民より背が高いとの表現はみ使いをあらわす表現ではないのかと
私は思っています。
み使いと人間との間は我々が思っているほど、大きくなく、神の目には、肩から上くらいの差がある:
そう思えます。
 

”24 サムエルは民のすべてに言った。「見よ。主がお選びになったこの人を。民のうちだれも、この人に並ぶ者はいない。」民はみな、喜び叫んで、「王さま。ばんざい。」と言った。
25 サムエルは民に王の責任を告げ、それを文書にしるして主の前に納めた。こうしてサムエルは民をみな、それぞれ自分の家へ帰した。
26 サウルもまた、ギブアの自分の家へ帰った。神に心を動かされた勇者は、彼について行った。
27 しかし、よこしまな者たちは、「この者がどうしてわれわれを救えよう。」と言って軽蔑し、彼に贈り物を持って来なかった。しかしサウルは黙っていた。”
 

何はともあれ、サウルは神により、民の王として選ばれました。
この事実は理解しなければなりません。今の時代のこの世には、すでに王がおり、
それは、サタンなのです。

彼の王座はいずれ、奪われるでしょうが、しかし、現在、明らかに
続いています。私達はこの世で誰に仕えるのか、それを問われていることを知るべきです。

終末における主のみこころを行いましょう。
ー以上ー 緊急:セミナーのお知らせ -----------------------------7d92681b4007c Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream