No. 634 ナルドの油

”テキスト:ヨハネ12:1 イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
2 人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。
3 マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。
4 ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。
5 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
6 しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。
7 イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。
8 あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。」”

本日は、ナルドの油という題で、メッセージをしたいと思います。
テキストに沿って見ます。

1 イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
2 人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。”
 

主は、過越の祭りの六日前にベタニヤに来られました、その祭りの
中で、主は十字架につけられるのです。

”3 マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。”
 

マリヤは自分の高価な油をもって、イエスに塗りました。
この事は麗しいことですが、たとえの意味合いがあると思われます。
油は聖霊のたとえであり、純粋な高価な油は、純粋で尊い聖霊のたとえです。
聖霊の働きに純粋とか、不純とか言うものがあるのかという質問があるかもしれませんが、あります。
聖霊の働きならみな同じというものでもありません。
トロントリバイバルには多少は、神の働きはあるのかもしれませんが、多くは変な悪霊の働きです。
不純物が大量に紛れているのです。
 

私達が神の働きに携わり、聖霊が働けば感謝ですが、何でも霊的な働きが、強力にあれば
良いというものではなく、純粋な聖霊の働きがあることが大切です。
 
 
 

非常に高価な」

非常に高価な香油をマリヤ はイエスに注いだのですが、この「高価」ということばを通して
語っていることは何でしょうか。

それは、大きな価を払い、時間をかけて与えられた聖霊の働きをさすと考えられます。
聖霊の働きは祈りを通して来るのですが、ここでは、時間をかけ、手間をかけ、エネルギーをかけ、
与えられた聖霊の働きに関して語っているように見えます。

この油の値段は300デナリ、日本円で300万円にもなろうかという高価な値段です。
この値段から連想されるのは、長い日数をかけた手間です。
300万円をかせぐには、一日1万円かせいだとしても300日もかかります。
1日2日ではなく、長い日数がかかるのです。
そして、その長い日数の働きのすえにこの高価な香油、主イエスの最後を飾った、
油は注ぎ出されたのです。主はこの油を喜ばれました。

それでここでの教えはこういうことになるでしょうか。

主はその油、すなわち、聖霊の働きを喜ばれる、そして、
その油は女であるマリヤを通して与えられたように、今の時代、クリスチャンまた教会を通して与えられる。主の喜ばれる聖霊の働きは純粋なもの、また長い年月、時間の祈りをかけて与えられる、
高価な聖霊の働きである。

「イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。」

香油はイエスの足に塗られました。足を洗うとは、
あの箇所、主がペテロ達の足を洗う箇所に通じます。
足を水で洗うのは、クリスチャンの歩みの中で生じる汚れを清める聖霊の働きを現します。
ですから、油で足をぬぐうとは、このことと同じ意味合いでしょう。
女マリヤは足を拭いました。このことは、尊い働きであり、それは、他のクリスチャンの足を洗う、
教会の働きに通じます。これは尊いのです。

髪の毛は権威と関係のあることばですから、主の権威に全く従う、女マリヤ、教会の
姿でしょうか。このことは主を喜ばせます。

”4 ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。
5 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」”

さて、ここで弟子の一人である、ユダから待ったがかかりました。
そんなこと、高価な香油をむだにせず、その金を貧しい人に使えば良いのではないかという
訴えです。

マリヤ流の生き方に関して彼は待ったをかけ、異義をとなえたわけです。
この手の議論は今でも、否今こそ教会で行われています。
教会で祈っているばかりではだめだ、具体的な行動に移せ、貧しい人、
社会事業、慈善事業に乗り出せということでしょうか。

貧しい人、社会事業、慈善事業がわるいとはいいませんが、しかし、
優先度の問題があります。

主は明らかにマリヤの生き方:祈りや、主に仕えることを賞賛し、ユダの生き方、すなわち
慈善、社会運動等を優先する生き方を退けたことを私達はここで見ます。
だから、この手の生き方を最優先する教会は主のことばを正しく理解すべきなのです。
 

”6 しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。”

さて、このように貧しい人のことを心にかけているようなことを語るユダは実際は金入れから盗んでいました。金入れに入っているのは金や銀でしょうし、この金は信仰と関係ずけられて語られます。
彼、ユダは金、信仰を盗むとも読み替えることができます。

ですから、このようなこと、すなわち、貧しい人を顧みろとさとす人は、実際は
教会のため、主のためを思っているというより、結果として、金入れから盗む、すなわち、教会の
信仰を崩していく結果になるのです。

このことは暗示的であり、かつ実際の現状を言い表しています。
不思議なものですが、社会変革、慈善、貧困者への配慮などといわゆる社会的福音を
語る人や、教会は大変失礼ながら、あまりまともな信仰をもっていないところが多いです。
イエスの復活やら、再臨などあまりまともに信じていない教会が多いのです。
孤児院、社会的福音にいそしんだマザーテレサも残念ながら、その信仰はいただけません。
彼女は多元主義者すなわち、救いはキリストのみでない、ヒンズー教徒はヒンズー教徒のまま
死ぬべきであるなどと見当違いなことをいっていた人でした。

確かに金入れから盗むすなわち、金、信仰がない人が多いのです。

”7 イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。”

マリヤはこの油を主の葬りの日のために取っておいたと主はいわれました。
この油はキリストすなわち、「油注がれた者:メシヤ」と関係することがらです。

旧約の歴代の王は、油注がれて王となりました。だから、主イエスもここで油注がれ、これから
王となるのです。だからここでの油注ぎは王となることと関係します。
旧約の王は、油注がれ王座にすわり、王権を宣言しましたが、主の場合少し違います。
主は何とこれから、命を失う、葬られるのです。
主は死に、蘇られ、そして王権を得ました。以下の復活後の記述はそれを語ります。

マタイ28:「16 しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。
17 そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。
18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」

「天においても、地においても、いっさいの権威が与えられ」いる、それが
権威を持つ王の姿なのです。

だから、私達も主の後に従い、高くなろうとするものは、自分の命を失うことを
学ぶべきなのです。


8 あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。」”

私達は貧しい人、すなわち、信仰のない人とはいつも一緒にいます。しかし、
主といつもともにいるわけではありません。それは、マリヤのように、
高価な犠牲をともなって、得られることなのでしょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー -----------------------------7d83582b30122 Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream