NO. 630命をかけて罪人を救われる主


”テキスト:ヨハネ11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。
2 このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
4 イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
5 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。
6 そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。
7 その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう。」と弟子たちに言われた。
8 弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」
9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。」
10 しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」
11 イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」
12 そこで弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」
13 しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。
14 そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。
15 わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」
16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」
17 それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。
18 ベタニヤはエルサレムに近く、三キロメートルほど離れた所にあった。
19 大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて慰めるためであった。
20 マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。
21 マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
22 今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」
23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
24 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
27 彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」
28 こう言ってから、帰って行って、姉妹マリヤを呼び、「先生が見えています。あなたを呼んでおられます。」とそっと言った。
29 マリヤはそれを聞くと、すぐ立ち上がって、イエスのところに行った。
30 さてイエスは、まだ村にはいらないで、マルタが出迎えた場所におられた。
31 マリヤとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、マリヤが墓に泣きに行くのだろうと思い、彼女について行った。
32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
35 イエスは涙を流された。
36 そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」
37 しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」と言う者もいた。
38 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。
39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」
40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
42 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」
45 そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。
46 しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。
47 そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して言った。「われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行なっているというのに。
48 もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。」
49 しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは全然何もわかっていない。
50 ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」
51 ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、
52 また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。
53 そこで彼らは、その日から、イエスを殺すための計画を立てた。
54 そのために、イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをしないで、そこから荒野に近い地方に去り、エフライムという町にはいり、弟子たちとともにそこに滞在された。
55 さて、ユダヤ人の過越の祭りが間近であった。多くの人々が、身を清めるために、過越の祭りの前にいなかからエルサレムに上って来た。
56 彼らはイエスを捜し、宮の中に立って、互いに言った。「あなたがたはどう思いますか。あの方は祭りに来られることはないでしょうか。」
57 さて、祭司長、パリサイ人たちはイエスを捕えるために、イエスがどこにいるかを知っている者は届け出なければならないという命令を出していた。”
 

本日は、命をかけて罪人を救われる主という題でメッセージをしたいと思います。
イエスキリストの公生涯を見るとき、その顕著な特徴は、謙虚さ、自分を決して、
高く上げたり、自分を故意にあらわそうとはしないことです。
しかしよく読むとわかることがあります。この箇所もそんな箇所です。
 

上記テキストを見るとき、主は命をかけてラザロのところへ言ったことがわかります。このことの
意味合いを見ていきたいと思います。
テキストに沿って見ます。

”1 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロ(
神が助けるもの)といって、マリヤ(彼らの反抗)とその姉妹マルタ(
彼女は反抗的だった)との村の出で、ベタニヤ(みじめな村)の人であった。”

主は病気そして後で、死んでしまったラザロを助けにベタニヤへ行きます。
ベタニヤ はエルサレムのすぐ近くの町です。
このエルサレムで主はユダヤ人から殺されそうになったのです。普通、
そんなところへ戻るべきかどうか、考え込むところです。
しかし、主はそこへ戻ることを決めたのです。

この時助けられた、ラザロ、またその姉妹として、記されている
マリヤ、マルタの名前も暗示的です。

マリヤは「彼らの反抗」という意味合いであり、その姉妹マルタは「
彼女は反抗的だった」との意味合いです。
表面的に見れば、病の兄弟を支えるうるわしい姉妹という印象ですが、
その意味を知ると、びっくりです。

彼女達の名前は、明らかに神に逆らう人々、罪人を意味します。
そして、その彼らを助けに主がベタニヤ、みじめな村へ行ったということは、
他でもない、主は罪人を見捨てない、命をかけて、病をいやし、死人を蘇らせるために
おもむく、そのような語りかけがあるのです。


2 このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。”
 

「主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐった」女に関しては以下に記されています。

”ルカ7:36 さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。
37 すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、
38 泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。”

ここでは、この女、マリヤに関して、わざわざ「一人の罪深い女」と記しています。
ですから、主がおもむいたベタニヤのマリヤは罪深い女であり、その
女を助けるために主は来られました。
私達が罪深い者なら、主はその私達を助けに来られる:これがここで語られているメッセージです。

”3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」”

このラザロに関して姉妹たちは、「あなたが愛しておられる者」と呼びました。
主はラザロを愛していたのです。ラザロとは、神が助ける者という意味合いであり、
神は罪人を助け、いやし、死から蘇らせる、そう聖書は語っているのです。
 

”4 イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
5 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。
6 そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。”
 

ここでは、「イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。」ことが書かれています。
これは、単に一つの特定の家族、特定の兄弟姉妹を愛していたという
意味合いではないと理解できます。私達がマルタ、マリヤの様に、反抗、罪の
中にいる者であっても、それでも、私達がまだ罪人であった時に私達を愛し、死なれた方がいるのです。

”7 その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう。」と弟子たちに言われた。
8 弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」”

ここで弟子達がいっているように、ほんの少し前にイエスが殺されそうになった、そのユダヤへ
もう一度戻ることは、死を意味します。しかし、そうであってもそこへ戻られた
主の姿に、命がけで罪人を救われた救い主の姿を見ることができるのです。
 


9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。」
10 しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」
11 イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」
12 そこで弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」
13 しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。
14 そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。
15 わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」”

ラザロは病になり、そして死に至ったのですが、病、死は罪と関係することばです。

以下のとおりです。

ヤコブ1:15「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」

ですから、ラザロを助けに主がユダヤに行かれたということは、
すなわち、罪のゆえに病、死に至る人を助けに主が行かれたという意味合いにも理解できます。

”16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」”
 

ここでトマスを始めとした弟子たちも主についてユダヤに戻るとき、命がけの決意が必要だったことが
わかります。この時、弟子達には危ないので、イエスについて行かないという選択もあったのでしょうが、
みな付いていきました。命がけで罪人を救う主に従うということは、すなわち私達も
いのちがけで従うということを意味していることがわかります。

”17 それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。
18 ベタニヤはエルサレムに近く、三キロメートルほど離れた所にあった。
19 大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて慰めるためであった。
20 マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。
21 マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
22 今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」
23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
24 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
27 彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」
28 こう言ってから、帰って行って、姉妹マリヤを呼び、「先生が見えています。あなたを呼んでおられます。」とそっと言った。
29 マリヤはそれを聞くと、すぐ立ち上がって、イエスのところに行った。
30 さてイエスは、まだ村にはいらないで、マルタが出迎えた場所におられた。
31 マリヤとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、マリヤが墓に泣きに行くのだろうと思い、彼女について行った。
32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
35 イエスは涙を流された。
36 そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」
37 しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」と言う者もいた。
38 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。
39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」
40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
42 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」
45 そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。
46 しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。”

ここで、主はラザロをよみがえらせました。このことによりラザロはいやされ、死から蘇ったのですが、
しかし、このことは、幾人かのユダヤ人により、パリサイ人に知らされ、
結果、主の命を奪うことが決められました。
このこと、主がラザロ、マリヤ、マルタのところへ行き、彼らを助けたことにより、
主御自身が高い代価、自分の命を支払うことになったのです。
このことはこれらの記事は暗示しています。

そして、ラザロは罪のゆえ、病、死に至る私達の型であり、いわれていることは、
主は罪、死に至る私達を救うために命がけで、救いをもたらす方であるということです。
 

”47 そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して言った。「われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行なっているというのに。
48 もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。」
49 しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは全然何もわかっていない。
50 ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」
51 ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、
52 また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。
53 そこで彼らは、その日から、イエスを殺すための計画を立てた。”
 

このラザロのことが、きっかけで祭司長とパリサイ人たちはイエスを殺す計画を立てました。
繰り返しますが、このことは、もし、主が病にかかり、死に至るラザロを見捨て、
「危険だから行かない」と決めたなら起きなかった殺害計画なのです。
主は自分の愛していたラザロとその姉妹たちを救うため、危険きわまりない地にあえて
戻り、結果、自分の命の代価を払うようになった、そうこの箇所は語っていることを知りましょう。

”54 そのために、イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをしないで、そこから荒野に近い地方に去り、エフライムという町にはいり、弟子たちとともにそこに滞在された。
55 さて、ユダヤ人の過越の祭りが間近であった。多くの人々が、身を清めるために、過越の祭りの前にいなかからエルサレムに上って来た。
56 彼らはイエスを捜し、宮の中に立って、互いに言った。「あなたがたはどう思いますか。あの方は祭りに来られることはないでしょうか。」
57 さて、祭司長、パリサイ人たちはイエスを捕えるために、イエスがどこにいるかを知っている者は届け出なければならないという命令を出していた。

殺害計画が起こされたために主はもう公然と歩くことができなくなりました。
また、「イエスがどこにいるかを知っている者は届け出なければならないという命令」も出されました。
すなわち、有名なお尋ね者、カルト扱いされる者になってしまったのです。
しかし、「あなたたちのせいで私はお尋ね者、カルト扱いされるようになりました。」と
主がラザロや彼の姉妹たちに愚痴を語ったとは聖書は記していません。

ですから、
これらの全ての犠牲を甘受し、なおかつ主は罪人を救いに死地におもむく、これがこの箇所で語られている
メッセージです。
 

ラザロ、マリヤ、マルタは特定の人々ではありますが、しかし、
罪に沈み、病になり、死に至る私達の型です。

そうです、今の時代の罪人である私達を救うために、主はこれら一切の犠牲をいとわないことがここでは、語られているのです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー   セミナーのお知らせ -----------------------------7d835028902a2 Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream