NO. 628王の入場


”テキスト:ヨハネ12:
12 その翌日、祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、
13 しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」
14 イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。
15 「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」
16 初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行なったことを、彼らは思い出した。”

本日は、「王の入場
」という題でメッセージをしたいと思います。

テキストに沿って見ます。

”12 その翌日、祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、
13 しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」”
 

この日は、イエスのエルサレム入場の日です。輝かしい、光栄の日に思われますが、
しかし、隠された意味合いがあると思われます。

一つ知るべきことは、ここで、人々はイエスを「王」として、迎えたということです。
「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」というみことばはまさに王を迎えることばなのです。

以下のことばもまた王を迎える言葉です。

”14 イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。
15 「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」”
 

「あなたの王が来られる」とは、まさに王を迎える言葉であり、
人々は王を迎えたのです。

さて、この様に王としてイエスを迎えたエルサレムの人々ですが、一週間ほどの間にまったく
態度を変え、イエスを十字架につけることに同意します。

この祭りの日、エルサレムには、イスラエル各地から、人がやってきました。
現代の日本の正月の祝いに毎年ほとんどの日本人が、あちこちの宮にもうでるように、
エルサレムの宮にはイスラエル全国から、人々がやってきていたのです。

だから、このエルサレムでのできごとはいわば、旧約の神の民であるイスラエル全体がどのように
イエスを迎えたかと言うことに通じます。

これらのエルサレムにもうでた人々は、イエスを十字架につけることを願うようになりますが、
その箇所を見ると、明らかに聖書は、他でもない王を十字架につけたと書いています。
下記のようです。

”マタイ27:
11 さて、イエスは総督の前に立たれた。すると、総督はイエスに「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」と尋ねた。イエスは彼に「そのとおりです。」と言われた。
 

マタイ27:29 それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」
 

マタイ27:37 また、イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである。」と書いた罪状書きを掲げた。

マタイ27:41 同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。
42 「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。
 

上記のごとく繰り返し、繰り返し、イエスと関連して、「王」ということばが
使われており、イエスという方を殺し、十字架につけるとは、
実はこの国の王を十字架で殺すことであると語っているのです。

このことは、名目でも文字の上だけの表現でもなく、文字どおり、
彼らはこの国を真に治めている方を殺したのだと、そう聖書は語っていることを覚えてください。
このイスラエルという国は世界の全ての国と異なるある大きな一点があり、それは、この
国は神により治められている国であるということです。すなわちこの国の真の統治者、王は
神御自身なのです。以下の様に書かれています。

”1サムエル12:12 あなたがたは、アモン人の王ナハシュがあなたがたに向かって来るのを見たとき、あなたがたの神、主があなたがたの王であるのに、『いや、王が私たちを治めなければならない。』と私に言った。”
 

ここで、サムエルは、「あなたがたの神、主があなたがたの王であるのに」と、
すでに起きている事実、すなわち王である神御自身がこの国を治めているという事実を
語りました。

そして、イエスの時代の人々は、恐ろしいことに
あろうことか、この統治者である神御自身を捕まえて殺してしまったのです。
何ともはや、しかし、恐るべきことがこの日行われたのです。

戦前の日、この国の王である天皇陛下に対して、人々の尊敬は大きく、その
写真さえ、御真影として、尊重されていました。まして、天皇を殺すなどと
誰も思わなかったのです。そんなことを計画した人もいましたが、重罰に罰せられました。

しかし、ここでは、あろうことか、天皇どころか、王である神御自身を殺してしまったのです。
何とも皮肉というか、冒涜というか、人が考えられるもっとも大きな罪をこの日、エルサレムの
人は犯してしまったのです。

このことは繰り返し繰り返し語られなければなりません。何故なら、終末の日に再度、愚かにもこの
過ちが新約の神の民の間で再現されるからです。
 

王である神御自身を殺してしまうなら、もう和解も交渉も謝罪も成り立ちません。

以下のことばは、終末の日、背教の教会において再度、「王殺し」が再現することを述べています。
 

”黙示録11:
8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。”

未来の日、黙示録の日に再度主が十字架につけられること、すなわち王殺しが再現されます。
これは、私の理解では、もう一人の助けぬし、聖霊を十字架につけることだと思われます。

何はともあれ、終末の日に王殺しが再現することを明らかに黙示録は預言しています。
そして、このことが再現するなら、もう一つのこと、エルサレムの裁き、
冒涜の神の民の裁きということも再現することを理解しなければなりません。

上記テキストは明らかにイエスの時代に神の民がイエスを王として迎えたことを語り、
同じ福音書は、またその時代におけるイエスの十字家刑、王殺しの実行を語ります。

これらの全てが終末の日にもっと大規模に再現することを知りましょう。
そして、特に神の民の裁きと言うことに目をとめるべきです。
 

終末の日のこの冒涜、そして、裁きに巻き込まれ、永遠の命を失う愚か者になってはいけません。

終末における主のみこころを行いましょう。
 

ー以上ー

 セミナーのお知らせ -----------------------------7d84615902a2 Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream